訓読 >>>
3652
志賀(しか)の海人(あま)の一日(ひとひ)もおちず焼く塩のからき恋をも我(あ)れはするかも
3653
志賀の浦に漁(いざ)りする海人(あま)家人(いへびと)の待ち恋ふらむに明かし釣(つ)る魚(うを)
3654
可之布江(かしふえ)に鶴(たづ)鳴き渡る志賀の浦に沖つ白波立ちし来(く)らしも [一云 満ちし来(き)ぬらし]
3655
今よりは秋づきぬらしあしひきの山松(やままつ)かげにひぐらし鳴きぬ
要旨 >>>
〈3652〉志賀島の海人たちが一日も欠かさず焼く塩、その辛さのように、辛く切ない恋に私は落ちてしまった。
〈3653〉志賀の浦で漁をする海人たちは、家で妻が帰りを心待ちしているだろうに、夜を明かして魚を釣っている。
〈3654〉可之布江(かしふえ)に向かって鶴が鳴き渡っていく。志賀の浦に沖から白波が寄せてきたらしい。
〈3655〉今からは秋めいていくようだ。山の松の木陰でひぐらしが鳴いている。
鑑賞 >>>
7月初旬、筑紫舘(つくしのたち:のちの鴻臚館)に着いてはるかに故郷を望み、悲しんで作った歌4首。博多湾沿岸に、外国使節や官人の接待や宿泊に用いる館がありました。旧福岡城内にあったとみられ、天智天皇時代の建物であろう古瓦が見つかっています。ただ、この時点でまだ筑紫にいるということは、3581や3586の歌にあったように、秋までに帰国するという予定はすでに完全に反故になっています。
3652の「志賀」は、福岡市の志賀島。「焼く塩」は、藻を焼いて作る塩。上3句は「からき」を導く序詞。「一日もおちず」は、一日も欠かさず、毎日毎日。3653は、夜通し漁をする海人たちを見ながら、自身の侘しさにもまさって、家で待つ妻をあわれんでいます。「待ち恋ふらむ」の「らむ」は、現在推量。「明かし」は、夜を明かして、夜通し。3654の「可之布江」は、福岡市東区香椎の入江ではないかとされます。「立ちし」の「し」は、強意。「来らしも」の「らし」は根拠に基づく推量、「も」は詠嘆。3655の「秋づき」は、秋めいて。「あしひきの」は「山」の枕詞。旅の途上での季節の推移をしみじみとうたっています。
遣新羅使について
遣新羅使は、571年から882年まで約3世紀にわたって日本から新羅へ派遣された外交使節のことで、その回数は、記録によると46回を数える。『日本書紀』によると、欽明天皇の時代から、新羅との間で任那(みまな)問題をめぐる交渉があり、日本側の使節には新羅系渡来人の吉士(きし)氏が多く任命された。663年の白村江(はくそんこう)の戦で新羅が百済(くだら)を滅ぼしたため一時期断交した。668年に新羅の朝貢により国交が回復したが、720年頃から再び関係が悪化し、779年両国使節の交流は終わった。その後は遣唐使の安否を問い合わせる使者が数度送られたのみとなった。国交回復後に派遣された使節の要職は、大使・少使・大位(だいじょう)・少位・大史(だいさかん)・少史各1人という構成だった。