大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

柿本人麻呂、泊瀬部皇女と忍坂部皇子に献る歌・・・巻第2-194~195

訓読 >>>

194
飛ぶ鳥の 明日香(あすか)の川の 上(かみ)つ瀬に 生(お)ふる玉藻(たまも)は 下(しも)つ瀬に 流れ触(ふ)らばふ 玉藻なす か寄りかく寄り 靡(なび)かひし 夫(つま)の命(みこと)の たたなづく 柔肌(にきはだ)すらを 剣大刀(つるぎたち) 身に添(そ)へ寐(ね)ねば ぬばたまの 夜床(よとこ)も荒(あ)るらむ〈一に云ふ、荒れなむ〉 そこ故(ゆゑ)に 慰(なぐさ)めかねて けだしくも 逢ふやと思ひて〈一に云ふ、君も逢ふやと〉 玉垂(たまだれ)の 越智(をち)の大野の 朝露(あさつゆ)に 玉裳はひづち 夕霧(ゆふぎり)に 衣(ころも)は濡(ぬ)れて 草枕 旅寝(たびね)かもする 逢はぬ君ゆゑ

195
敷栲(しきたへ)の袖(そで)交(か)へし君(きみ)玉垂(たまだれ)の越智野(をちの)過ぎ行くまたも逢はめやも [一云 越智野に過ぎぬ]

 

要旨 >>>

〈194〉明日香川の上流の瀬に生えている玉藻は、下流の瀬に流れて靡き寄っている。そのように寄り添って靡き寄り添った夫の皇子は、皇女の柔肌を身に添えてやすまれることもないので、夜の床も荒れたままになっているだろう(荒れすさんでゆくだろう)。そのため、どうにも慰めかねて、ひょっとして皇子に逢えるやも知れぬと(皇子がひょっこり逢いにくるかと)思って、越智の大野にお立ちになり、朝露に裳裾をぬらし、夕霧に着物を湿らせながら、殯宮に旅寝されることだろうか。逢えない皇子に逢うために。

〈195〉互いに袖を交わして共寝したあなたは、越智野に過ぎて行ってしまわれた。再びお逢いすることがあろうか、ありはしない。

 

鑑賞 >>>

 泊瀬部皇女(はつせべのひめみこ)が、夫君の河島皇子(かわしまのみこ)と死別なさった時に、柿本人麻呂が、皇女と皇女の同母兄の忍坂部皇子(おさかべのみこ)に献上した歌。あるいは、河島皇子に対する妻の泊瀬部皇女の挽歌を、人麻呂が代作したとの見方もあります。泊瀬部皇女・忍坂部皇子は、いずれも天武天皇の子。忍坂部皇子は、大宝律令の編纂者として参与し重きをなしていた皇子です。河島皇子は天智天皇の皇子で、持統5年(691年)9月9日没。

 194の「飛ぶ鳥の」は「明日香」の枕詞。「流れ触らばふ」は、靡いて触れ合っている。「たたなづく」「剣太刀」「ぬばたまの」は、それぞれ「柔肌」「身に添ふ」「夜」の枕詞。「けだしくも」は、ひょっとして。「玉垂の」は「越智」の枕詞。「越智の大野」は、奈良県高取町越智周辺の原野。「草枕」は「旅」の枕詞。195の「敷栲の」「玉垂の」は、それぞれ「袖」「越智」の枕詞。「越智野過ぎ行く(一云 越智野に過ぎぬ)」は葬式の列が過ぎて行くことを言っています。「またも逢はめやも」の「やも」は、反語。

 亡くなった河島皇子を直接に悲しむ語はなく、一貫して泊瀬部皇女の悲しみを悼み、皇女自身になり代わって夫の死を嘆く歌になっており、皇子皇女に対する挽歌としては特殊なものになっています。その点から、人麻呂は、河島皇子には直接な関係はなかったものとみられます。なお、河島皇子は大津皇子と親密な関係にあったものの、大津皇子に叛意ありと密告し、大津処刑の要因になったとされる人です。