大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

立山に降り置ける雪の常夏に・・・巻第17-4003~4005

訓読 >>>

4003
朝日さし そがひに見ゆる 神(かむ)ながら 御名(みな)に帯(お)ばせる 白雲(しらくも)の 千重(しへ)を押し分け 天(あま)そそり 高き立山(たちやま) 冬夏と 別(わ)くこともなく 白たへに 雪は降り置きて 古(いにしへ)ゆ あり来(き)にければ こごしかも 岩の神(かむ)さび たまきはる 幾代(いくよ)経(へ)にけむ 立ちて居(ゐ)て 見れども異(あや)し 嶺(みね)高(だか)み 谷を深みと 落ち激(たぎ)つ 清き河内(かふち)に 朝去らず 霧(きり)立ち渡り 夕されば 雲居(くもゐ)たなびき 雲居なす 心もしのに 立つ霧の 思ひ過ぐさず 行く水の 音もさやけく 万代(よろづよ)に 言ひ継(つ)ぎ行(ゆ)かむ 川し絶えずは

4004
立山に降り置ける雪の常夏(とこなつ)に消(け)ずてわたるは神(かむ)ながらとぞ

4005
落ちたぎつ片貝川(かたかひがは)の絶えぬごと今見る人もやまず通はむ

 

要旨 >>>

〈4003〉朝日が背後から射し、神々しいその名のままに、白雲を幾重にも押し分けて天にそびえ立つ立山よ。冬も夏も絶えることなく、いつも真っ白な雪が降り積もり、古く遠い御代からそのままの姿であり続けてきたものだから、凝り固まった岩々は神々しく、幾代を経てきたことであろう。立って見ても座って眺め続けていても、その神々しさは計り知れない。峰が高く谷が深いので、落ちたぎる、清らかな谷あいの流れには、朝ごとに霧が立ちわたり、夕方になると雲が一面にたなびく。その雲のように心畏れつつ、その霧のように思いをこめつつ、流れる水の音の清らかさをそのままに、幾代にもわたって語り継いでゆこう。この川が絶えない限り。

〈4004〉立山に降り積もった雪が、夏の盛りにも消えずに残り続けるのは、神の御心のままでいらっしゃるからこそだ。

〈4005〉滝となって落ちたぎる片貝川が絶えることがないように、今見ている人も、この先ずっとここに通い続けるだろう。

 

鑑賞 >>>

 大伴池主が、大伴家持長歌立山の賦」(4000)に和した、天平19年(747年)4月28日の作。4003の「そがひ」は、背後。「天そそり」は、天にそびえて。「古ゆ」の「ゆ」は、~から。「こごし」は、岩がごつごつと重なり。「神さぶ」は、神々しい。「たまきはる」は「幾代」の枕詞。「異し」は、霊妙だ。4005の「片貝川」は、富山県のおもに魚津市を流れる川。

 この歌について、窪田空穂は次のように評しています。「家持の歌は、細くはあるが滑らかさを帯びていたが、池主は反対に、太くはあるが騒がしくて、肝腎の統一感を持ち得ない点では、むしろ劣っている。思うに漢詩の影響を受けすぎ、部分的に、秀句を得ようとすることに心を奪われ、全体の統一をおろそかにしたためと思われる。構成が確かで、その連続も自然であるのに、感味の乏しいのはそのためと思われる」

 大伴池主(おおとものいけぬし)は大伴家持の同族で、生没年不詳ながら、天平18年(746年)ころ、越中守だった家持の配下にあり、家持との間に交わした歌を多く残しています。後に越中掾(じょう:国司の第3等官)に転じ、さらに中央官として都に帰っています。記録の上では、家持との交流は20年に及び、さらに少年期にまで遡れば、2人は30年来の知己だったのではないかともいわれます。しかし、天平勝宝9年(757年)の橘奈良麻呂の変に加わって捕縛され、その後の消息が分からなくなっています。『万葉集』には29首の歌を残しており、勅撰歌人として『新勅撰和歌集』にも1首入集。漢詩もよくし、その才能は家持を上回っていたともいわれます。