大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

馬並めていざ打ち行かな・・・巻第17-3953~3954

訓読 >>>

3953
雁(かり)がねは使ひに来(こ)むと騒(さわ)くらむ秋風寒みその川の上(へ)に

3954
馬(うま)並(な)めていざ打ち行かな渋谿(しぶたに)の清き礒廻(いそみ)に寄する波(なみ)見に

 

要旨 >>>

〈3953〉雁たちは都へ使いに行こうと鳴き騒いでいるようだ。秋風が寒くなってきたので、あの川べりで。

〈3954〉さあ、馬をつらねて行こうではないか、あの渋谿の清らかな磯へ寄せる波を見に。

 

鑑賞 >>>

 大伴家持の歌。天平18年(746年)3月の人事で、29歳の家持は宮内少輔に任命され、次いで6月に越中国守に任命されました。当時の越中国は、射水・礪波・婦負・新川郡のほか、羽咋・鳳至・能登珠洲郡を含む8郡からなり、国の等級では「大国」に次ぐ「上国」にランク付けされていました。この年齢での出世は早い方で、多くの部下を持つ身になったのです。それに伴い、彼のいわゆる青春彷徨の時代は終わったと見ることができましょう。ここの歌は、越中国に赴任して間もない8月7日の夜に、国守の館で宴が行われ、その場で詠んだ歌です。これ以降の歌が、本格的に巻第17およびそれ以後の巻を構成することになります。

 3953の「雁がね」は、雁。「寒み」は、寒いので。3954の「渋谿」は、富山県高岡市渋谷にある景勝地。「礒廻」は、磯の入り込んだ所。なお、この宴には掾(じょう)大伴池主(おおともいけぬし)、大目(だいさかん)蓁八千嶋(はたのやちしま)、僧玄勝、史生(ししょう)土師道良(はにしのみちよし)らが参加しており、彼らが詠んだ歌も残されています。「掾」は国司の三等官、「大目」は四等官、「史生」は書記。

 この時、国司の一員である掾として一族の大伴池主が着任していたことは、初めて地方に赴任する家持にとって、とても心強かったことでしょう。しかし一方で、この越中への赴任は、家持の詩人としての成長をうながすかのように、天が用意してくれた絶好の機会ともなりました。さらに、それまで多くの女性と付き合ってきた青春彷徨時代に区切りをつける転機ともなりました。