大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

大伴家持と紀女郎の歌(1)・・・巻第4-762~764

訓読 >>>

762
神(かむ)さぶと否(いな)にはあらずはたやはたかくして後(のち)に寂(さぶ)しけむかも

763
玉の緒(を)を沫緒(あわを)に搓(よ)りて結(むす)べらばありて後(のち)にも逢はざらめやも

764
百年(ももとせ)に老舌(おいした)出(い)でてよよむとも我れはいとはじ恋ひは増すとも

 

要旨 >>>

〈762〉もう年を取ったからって受け入れたくないわけではありません。でもひょっとして、拒んだ後になって寂しく思うのかも。

〈763〉お互いの玉の緒を、沫緒(あわお)のように縒り合わせて結んでおいたなら、生き永らえて、いつかお逢いできるかもしれないではありませんか。

〈764〉あなたが百歳になって、おばあちゃんみたいに舌が出て腰が曲がっても、私は嫌になったりはしません、恋しさが増すことはあっても。

 

鑑賞 >>>

 紀女郎(きのいらつめ)は奈良中期の人で、名は小鹿(おしか)。安貴王(あきのおおきみ)の妻でしたが、夫の裏切りにあい、巻第4-643~645で恨みの歌を詠んでいます。そして、その後出会った年下の大伴家持との贈答歌で知られています。ただ、これらはあくまで友交関係による社交的な歌であって、当時の一般的な傾向として、恋歌風になり、さらに諧謔的な言葉遣いが用いられているとする見方もありますが、はたしてそうでしょうか。

 762・763は、紀女郎が大伴家持に贈った歌、764がそれに答えた家持の歌です。762の「神さぶ」は、古風である、年老いるという意。といってもこのころの紀女郎はまだ30代のはじめくらいだったとされます。「はたやはた」は、ひょっとすると。763の「玉の緒」は、玉を貫く緒。「沫緒」は、緒の縒り方、結び方の名とされますが、未詳。「やも」は、反語。764の「よよむ」は、腰が曲がる。

 この時の家持は、内舎人(うどねり)という天皇に仕える官職にあって、恭仁京(久邇京)に赴任していました。紀女郎もまた官職に就いて恭仁京にやって来ていたようです。恭仁京は、藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)が九州で反乱を起こした天平12年(740年)に、聖武天皇平城京を脱出し、山城の三香原(京都府木津川市加茂町)に移した都です。当時23歳だった家持は、その後の4年間をこの地で過ごすことになります。