大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

持統太上天皇と文武天皇の紀伊国行幸の折の歌(2)・・・巻第9-1672~1675

訓読 >>>

1672
黒牛潟(くろうしがた)潮干(しほひ)の浦を紅(くれなゐ)の玉裳(たまも)裾(すそ)ひき行くは誰(た)が妻

1673
風莫(かざなし)の浜の白波いたづらにここに寄せ来(く)る見る人なしに [一云 ここに寄せ来(く)も]

1674
我(わ)が背子(せこ)が使(つかひ)来(こ)むかと出立(いでたち)のこの松原を今日(けふ)か過ぎなむ

1675
藤白(ふぢしろ)のみ坂を越ゆと白栲(しろたへ)のわが衣手(ころもで)は濡れにけるかも

 

要旨 >>>

〈1672〉潮が引いている黒牛潟を、鮮やかな紅の裳裾姿で行き来している宮廷婦人は、いったい誰の思い人だろう。

〈1673〉風莫の浜の静かな白波は、ただ空しく寄せてくるばかりだ。見る人もいないままに。

〈1674〉私の夫のお使いが来ないかと、門口に出で立つという名の出立の松原、待つその人を思わせるこの松原を、今日は通り過ぎてしまうのだろうか。

〈1675〉悲しい事件があった藤白の坂を越えると、私の白い衣は涙に濡れてしまった。

 

鑑賞 >>>

 大宝元年(701年)10月に、持統太上天皇文武天皇紀伊国行幸なさったときの歌13首のうちの4首。

 1672の「黒牛潟」は、海南市にある黒江湾。黒牛に似た大岩が干満とともに見え隠れしたための名といいます。「玉裳」の「玉」は美称。窪田空穂はこの歌を評し、「潮干の浦へ出て遊んでいる従駕の女官を、同じく従駕の官人として、やや距離を置いて眺めていての心である。黒牛潟は和歌浦湾の一部で、海のきわめて美しい所で、それを背景としての女官の姿は画のごとく印象的であったろうと想像されるが、この歌はそれを『黒牛潟』の『黒』と『紅』との対照によって、それにも劣らずきわやかに鮮明に印象づけている。『行くは誰が妻』と、羨望をとおして官能的にその美を暗示しているのは、きわめて巧妙である。一首全体として相応に官能的であるが、余裕をもって自然にいっているので、そうした歌に伴いやすい厭味がいささかもない、手腕ある作である」と述べています。

 1673の「風莫」は所在不明ながら、1672の「黒牛潟」の別称ではないかとされます。あるいは「莫」は誤写だとして「風早(かざはや)」すなわち「風の強い浜」と解するものもあります。なお、この歌は、山上臣憶良の類聚歌林には、「長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)が天皇の詔(みことのり)にお応えして作った」とあります。

 1674の上2句は「出立」を導く序詞。「出立」は、田辺市西部の海岸。「過ぎなむ」は、通り過ぎるのだろう。ある女官が心の中でひそかに思ったことを詠んだ形の歌です。1675の「藤白のみ坂」は、今の和歌山県海南市藤白で、謀叛の疑いをかけられた有間皇子が追手によって絞殺された場所。「み坂」の「み」は接頭語。「白妙の」は「衣手」の枕詞。有間皇子が亡くなったのはこの時より40余年前の出来事です。