大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

鹿島郡の苅野橋で、大伴卿と別れたときの歌・・・巻第9-1780~1871

訓読 >>>

1780
牡牛(ことひうし)の 三宅(みやけ)の潟(かた)に さし向かふ 鹿島(かしま)の崎に さ丹(に)塗りの 小船(をぶね)を設(ま)け 玉巻きの 小楫(をかぢ)しじ貫(ぬ)き 夕潮(ゆふしほ)の 満ちのとどみに 御船子(みふなこ)を 率(あども)ひ立てて 呼び立てて 御船(みふね)出(い)でなば 浜も狭(せ)に 後(おく)れ並(な)み居(ゐ)て 臥(こ)いまろび 恋ひかも居(を)らむ 足ずりし 音(ね)のみや泣かむ 海上(うなかみ)の その津をさして 君が漕(こ)ぎ去(い)なば
1781
海つ道(ぢ)の凪(な)ぎなむ時も渡らなむかく立つ波に船出(ふなで)すべしや

 

要旨 >>>

〈1780〉三宅の潟に向かい合う鹿島の崎に、赤い丹塗りの御船を準備し、玉を飾った櫂を梶を船べりにたくさん取りつけ、夕潮が満ちると漕ぎ手らを呼び集め、掛け声を立てて御船が出航して行ったなら、後に残った者たちは、浜も狭しとひしめき合い、転げ回って恋しがり、地団駄を踏んで声をあげて泣くことでしょう。海上の向こうの三宅の港を指して、あなた様が漕ぎ出して行ったならば。

〈1781〉海路が穏やかになってからお渡りになればよいのに。こんなに波立つ中を船出なさらなくとも。

 

鑑賞 >>>

 『高橋虫麻呂歌集』から。「鹿島郡(かしまのこおり)」は、茨城県にあった郡。「苅野」は、茨城県神栖市。「大伴卿」は、検税使(けんぜいし)として当地を訪れ、1753・1754で高橋虫麻呂によって筑波山に案内された大伴旅人とされます。常陸国の検税の仕事を終え、苅野橋から船出をし、下総の海上の津に向かって出航した際の歌です。

 1780の「牡牛」は特に大きな牛で「三宅」にかかる枕詞。「三宅」は、本来は貢物を蔵しておく屯倉(みやけ)で、それがあったことから地名になったもの。牡牛はその貢物を運ぶので、その関係から枕詞したとみられます。「さ丹塗り」の「さ」は接頭語で、赤く塗った。「小楫」の「小」は接頭語。「しじ貫き」は、たくさん取りつけて。「満ちのとどみ」は、満潮の極み。「率ひ」は、引き連れ。「足ずり」は、地団太を踏むこと。「海上」は、千葉県銚子市付近の郡名。1781の「渡らなむ」の「なむ」は願望。「すべしや」の「や」は反語。