大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

大伯皇女が弟の大津皇子を偲ぶ歌・・・巻第2-165~166

訓読 >>>

165
うつそみの人にある我(わ)れや明日(あす)よりは二上山(ふたかみやま)を弟背(いろせ)とわが見む

166
磯の上(うへ)に生(お)ふる馬酔木(あしび)を手折(たを)らめど見すべき君がありと言はなくに

 

要旨 >>>

〈165〉生きて現世に残っている私は、明日からはあの二上山ををいとしい弟と思って眺めようか。

〈166〉水辺の岩のほとりに生えている馬酔木の花を手折ろうと思うけれども、それを見せたい弟がこの世にいるとは誰も言ってくれない。

 

鑑賞 >>>

 この2首は、題詞に「大津皇子の屍(かばね)を葛城(かつらき)の二上山(ふたかみやま)に移し葬(はふ)りし時に、大伯皇女の哀(かな)しび傷(いた)みて作りませる御歌」とあります。二上山(今はニジョウサン)は、奈良県大阪府の境界をなす葛城連峰にある山で、雄岳と雌岳の二つの峰があります。平地のどこからでも、それと指させる山であり、大津の墓は、今も二上山の雄岳の山頂近くに、大和に背を向けるようにして建っています。

 花が白く美しく咲く馬酔木(アセビとも)は、その小さい壺の形が鈴なりになっていることから、生命力に満ちた呪的な花といわれ、万葉人は、馬酔木を深く愛したようです。弟を思う大迫皇女の心を語るかのような花であり、二上山の山頂には、今も馬酔木が群生しているといいます。「馬酔木」の漢字名は、葉にグラヤノトキシンなどの有毒成分が含まれており、馬が葉を食べれば毒に当たって苦しみ、酔うが如くにふらつくようになる木というところからついたとされます。

 なお、この移葬は一般には、死者を仮安置する殯宮(ひんきゅう)から墳墓に移すことですが、この場合、謀反人である大津のために殯宮が営まれたとは考えにくく、特別な事情で、葬地を他に移したのではないかとする見方があります。そもそも、大津の抹殺は草壁皇子の安泰をはかって行われたものでした。それにもかかわらず、その3年後に草壁は皇太子のまま薨じてしまいます。それを大津の亡魂の祟りだと考え、罪人として正式に葬られていなかった大津の屍を、あらためて二上山に移し、丁重に慰撫し鎮定しようとしたのだといわれます。

 飛鳥に戻ってきた大伯皇女には、当時の慣習に従って皇子宮が与えられました。工房跡の遺跡からは、皇女の宮を造るための資材を発注したとみられる木簡が見つかっています。皇女は未婚のまま、大宝元年(701年)12月に41歳で亡くなるまで、この皇子宮で孤独な余生を過ごしたとされます。

 165の「うつそみ(うつせみ)」は、この世の人、現世の人の意で、「うつしおみ(現し臣)」が語源とされます。「現し(うつし)」は神の世界に対する人間世界の形容、「臣(おみ)」は神に従う存在のことで、この「うつしおみ」が「うつそみ」「うつせみ」に転じたものです。『雄略記』には、この語が出てくる次のような話が載っています。―― 天皇が百官を伴い葛城山に登ると、向かいの山に自分たちと全く同じ装いで同じ行動をとる一行に出会った。天皇は立腹し誰何すると、相手は、葛城の一言主大神(ひとことぬしのおおかみ)と名乗った。天皇は恐れ畏まり、神に対し『恐(かしこ)し、我が大神。うつしおみにあれば、覚らず』と述べた――。天皇が神に不覚を詫びたものであり、「うつしおみ」は、幽界の神に対して自らを現世の臣下である人間と卑下した言葉となっています。大伯皇女の歌の「うつそみの人にある我れや」の言葉にも、幽界へ去った弟への深い喪失感とともに、現世に留まる自身の無力さを嘆く気持ちが込められています。

 166の「磯」は、ここでは石、岩のこと。古くは石上(いそのかみ)など、石を「いそ」と呼んでいた例があります。「上」は、あたり、ほとり。