大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

ゆくへなくありわたるとも霍公鳥・・・巻第18-4089~4092

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4089
高御座(たかみくら) 天(あま)の日継(ひつぎ)と 皇祖(すめろき)の 神の命(みこと)の 聞こし食(を)す 国のまほらに 山をしも さはに多みと 百鳥(ももとり)の 来居(きゐ)て鳴く声 春されば 聞きのかなしも いづれをか 別(わ)きて偲(しの)はむ 卯(う)の花の 咲く月立てば めづらしく 鳴くほととぎす あやめ草 玉 貫(ぬ)くまでに 昼暮らし 夜(よ)渡し聞けど 聞くごとに 心つごきて うち嘆き あはれの鳥と 言はぬ時なし

4090
ゆくへなくありわたるとも霍公鳥(ほととぎす)鳴きし渡らばかくや偲(しの)はむ

4091
卯(う)の花のともにし鳴けば霍公鳥(ほととぎす)いやめづらしも名告(なの)り鳴くなへ

4092
霍公鳥(ほととぎす)いとねたけくは橘(たちばな)の花散る時に来鳴き響(とよ)むる

 

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〈4089〉高い御位にいます、日の神の後継ぎとして、代々の天皇がお治めになるこの国のすぐれた所に、山々は多く、さまざまな鳥がやってきて鳴く、その声は春になるとひとしお愛しい。いずれの鳥の声が愛しいというわけではないが、とくに卯の花の咲く季節がやってくると、懐かしく鳴くホトトギス。その声は、菖蒲(あやめ)を薬玉に通す五月まで、昼は終日、夜は夜どおし聞くけれど、そのたびに心が激しく動き、ため息をつき、ああ何と趣きの深い鳥と言わない時はない。

〈4090〉途方に暮れた日々を送ることがあっても、ホトトギスが鳴きながら飛び渡って行けば、今と同じように聞き惚れることだろう。

〈4091〉卯の花が咲くとともにホトトギスが鳴くのには、いよいよ心が引かれる。ちょうど自分はホトトギスだよと名告っていると共に。

〈4092〉ホトトギスがやたら小憎らしいのは、橘の花が散る時にやって来て鳴き立てるせいだ。

 

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 天平勝宝元年(749年)5月10日、大伴家持が一人部屋の中にいて、はるかにホトトギスが鳴くのを聞いて作った歌。4089の「高御座」は、天皇の地位を象徴する八角造りの御座。「天の日継」は、天照大御神の系統を受け継ぐこと、天皇の位。「皇祖の神の命」は、天皇。「聞こし食す」は、お治めになる。「まほら」は、秀でた所。「山をしも」の「しも」は、強調の助詞。「さはに」は、数多く。「玉貫く」は、端午の節句に薬玉を飾ること。「うち嘆き」の「うち」は接頭語。

 4090の「ゆくへなく」は、なすすべもなく途方に暮れて。4091の「鳴くなへ」の「なへ」は、~と共に。ホトトギスの鳴き声は、今では「トッキョ、キョカキョク」とか「テッペン、カケタカ」などと表されますが、当時の人たちには「ホット、トギス」と名乗っているように聞こえたのかもしれません。4092の「ねたけく」は「嫉(ねた)し」の名詞形。嫉ましい。

 家持には、「独り」の思いだとして作った歌がしばしば見られます。「独詠歌」、つまり、聞き手や相手の存在を前提としない歌、何らかの要請があって作ったものではない歌、自身が詠みたいから詠んだ歌です。家持より前には、こうしたありようを意識した人はなく、その意味では、家持は日本ではじめての「文学者」といってよいのかもしれません。

 

焼太刀を砺波の関に・・・巻第18-4085

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焼太刀(やきたち)を砺波(となみ)の関(せき)に明日(あす)よりは守部(もりへ)遣(や)り添へ君を留(とど)めむ

 

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焼いて鍛えた太刀、その太刀を研ぐという砺波の関に、明日からは番人を増やして、あなたにゆっくり留まっていただきましょう。

 

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 天平勝宝元年(749年)5月5日、東大寺の占墾地使(せんこんじし)の僧(そう)平栄(へいえい)らをもてなした時、大伴家持が酒を僧に贈った歌。「占墾地使」は、寺院に認められた開墾地(荘園)の所属を確認する使者で、この時期、平栄らは越中に入って活動していました。

 東大寺や中央貴族の墾田地(荘園)を占有するため、国守の家持にもその行政力が期待されていました。家持が在任中に成立した越中国内の東大寺荘園は、天平21年(749年)4月1日詔書の「寺院墾田地許可令」にもとづき、射水郡4か所、砺波郡1か所、新川郡2か所の合計7か所から始まっています。「焼き太刀を」は「砺波」の枕詞。「砺波の関」は、越中と越前の国境にあった関。「守部」は番人、ここでは関所の役人。

 

大伴家持が菟原処女の墓の歌に追同した歌・・・巻第19-4211~4212

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4211
古(いにしへ)に ありけるわざの くすばしき 事と言ひ継(つ)ぐ 茅渟壮士(ちぬをとこ) 菟原壮士(うなひをとこ)の うつせみの 名を争ふと たまきはる 命(いのち)も捨てて 争ひに 妻問(つまど)ひしける 処女(をとめ)らが 聞けば悲しさ 春花(はるはな)の にほえ栄(さか)えて 秋の葉の にほひに照れる あたらしき 身の盛(さか)りすら ますらをの 言(こと)いたはしみ 父母(ちちはは)に 申(まを)し別れて 家離(いへざか)り 海辺(うみへ)に出で立ち 朝夕(あさよひ)に 満ち来る潮(しほ)の 八重(やへ)波に 靡(なび)く玉藻(たまも)の 節(ふし)の間(ま)も 惜(を)しき命(いのち)を 露霜(つゆしも)の 過ぎましにけれ 奥城(おくつき)を ここと定めて 後(のち)の世の 聞き継ぐ人も いや遠(とほ)に 偲(しの)ひにせよと 黄楊小櫛(つげをぐし) 然(しか)挿(さ)しけらし 生(お)ひて靡(なび)けり

4212
処女(をとめ)らが後(のち)の標(しるし)と黄楊小櫛(つげをぐし)生(お)ひ変(かは)り生(お)ひて靡(なび)きけらしも

 

要旨 >>>

〈4211〉遠い昔にあったという、世にも珍しい出来事として言い伝えられてきた、茅渟壮士(ちぬおとこ)と菟原壮士(うないおとこ)の乙女をめぐる伝説。二人は、この世の名誉にかけて争い、命がけで、乙女に妻どいしたという、その乙女の伝説は、聞くも悲しい。春の花のように光り輝き、秋の紅葉のように美しい、そんなもったいない女盛りでありながら、二人の男の言い寄る言葉をつらく思い、父母に事情を告げて家を出て、海辺にたたずんだ。朝に夕に満ちてくる潮の、幾重も波になびく玉藻、その玉藻の一節の間ほどのあいだも惜しい命なのに、はかない露霜のように消え果ててしまった。墓所をここと定めて後の世の人たちも語り継いで、いつまでも乙女を偲ぶよすがにしようと、乙女の黄楊の小櫛をそんなふうに墓に挿したらしい。それが生え育って、こうして靡いていることだ。

〈4212〉乙女が後の世の人へのしるしにと残した黄楊の小櫛。この櫛は木となって育ち、靡いているのだろう。

 

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 蘆屋(あしや)の菟原処女(うないおとめ)の伝説を歌った、田辺福麻呂の1801~1803、高橋虫麻呂の1809~1811などに、後から大伴家持が唱和したもの。

 4211の「くすばし」は、珍しい、不思議だ、の意。「たまきはる」は「命」の枕詞。「茅渟」は、堺市から岸和田市にかけての地。「あたらし」は、もったいない。「朝夕に~靡く玉藻の」は「節の間」を導く序詞。「露霜の」は「過ぐ」の枕詞。「奥城」は墓。「黄楊小櫛」はツゲの木で作った櫛。

 菟原乙女は二人の男に求婚され、その板ばさみに苦しんで自殺したという伝説の美女です。菟原は、蘆屋から神戸市にかけての地とされ、神戸市東灘区御影町には「処女(おとめ)塚」が、その東西1kmほどの所には二人の男の「求女(もとめ)塚」が残っています。菟原乙女は同じ郷里の菟原壮士よりも、他所から来た茅渟壮士が好きだったようです。しかし、いくら心が傾いても、よそ者を受け入れることができなかったのです。

 この菟原乙女の伝説は『大和物語』にも載っており、乙女が死ぬ間際に詠んだという「住みわびぬ我が身投げてむ津の国の生田の川は名のみなりけり」という歌があります。後には観阿弥による謡曲『求塚』に発展し、さらには森鴎外の戯曲『生田川』にも採り上げられています。なお、現在、処女塚の西のわきには、田辺福麿が詠んだ「古への小竹田壮士の妻問ひし菟会処女の奥津城ぞこれ」の歌碑が置かれています。

 

 

山の端のささら愛壮士・・・巻第6-983

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山の端(は)のささら愛壮士(えをとこ)天(あま)の原(はら)門(と)渡る光(ひかり)見らくし好(よ)しも

 

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山の端に出てきた小さな月の美男子が、天の原を渡りつつ照らす光の何とすばらしい眺めでしょう。

 

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 大伴坂上郎女が詠んだ「月の歌」。「ささら愛壮士」の「ささら」は天上の地名、「愛壮士」は小さく愛らしい男の意で、月を譬えています。左注に、ある人が郎女に、月の別名をささらえ壮子というと話すと、郎女はその名に興味をもち、それを詠み込む形で一首にしようとした、とあります。「ささら愛壮士」を詠んだ歌は、集中この1首しかなく、月の中でも特に上弦の月をいったのではないかとする説もあります。「門渡る」の「門」は、ここでは山が両側にあって門のように空が狭くなっている所。「見らくし好しも」の「見らく」は動詞「見る」の名詞形。「し」は強意。「好しも」の「も」は詠歎。

 

大伴坂上郎女の略年譜

大伴安麻呂石川内命婦の間に生まれるが、生年未詳(696年前後、あるいは701年か)
16~17歳頃に穂積皇子に嫁す
714年、父・安麻呂が死去
715年、穂積皇子が死去。その後、宮廷に留まり命婦として仕えたか
721年、藤原麻呂左京大夫となる。麻呂の恋人になるが、しばらくして別れる
724年頃、異母兄の大伴宿奈麻呂に嫁す
坂上大嬢と坂上二嬢を生む
727年、異母兄の大伴旅人が太宰帥になる
728年頃、旅人の妻が死去。坂上郎女が大宰府に赴き、家持と書持を養育
730年 旅人が大納言となり帰郷。郎女も帰京
730年、旅人が死去。郎女は本宅の佐保邸で刀自として家政を取り仕切る
746年、娘婿となった家持が国守として越中国に赴任
750年、越中国の家持に同行していた娘の大嬢に歌を贈る(郎女の最後の歌)
没年未詳

春の日に張れる柳を取り持ちて・・・巻第19-4142

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春の日に張れる柳(やなぎ)を取り持ちて見れば都の大道(おほち)し思ほゆ

 

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春の日に、芽吹いてきた柳の小枝を折り取って眺めると、奈良の都の大路が思い起こされてならない。

 

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 天平勝宝2年(750年)の3月2日、大伴家持が、新柳の枝を折り取って都を思う歌。この時33歳の家持は、越中での4度目の春を迎えていました。

 「張れる」は、芽が出る、ふくらむ。「大道し」の「し」は強意。この歌から、当時の都大路の並木には柳が植えられていたことが分かります。柳は漢詩的な素材であり、柳葉は化粧をした女性の細い眉に譬えられます。家持は都大路のことを思い出すと同時に、都の美女たちのことも思い浮かべていたのかもしれません。

 

春日なる御笠の山に・・・巻第7-1295

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春日(かすが)なる御笠(みかさ)の山に月の舟(ふね)出(い)づ遊士(みやびを)の飲む酒杯(さかづき)に影に見えつつ

 

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春日の三笠の山に、船のような月が出た。風流な人たちが飲む酒杯の中に映り見えながら。

 

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 巻第7の「旋頭歌」の部の最後におかれたこの一首は、『柿本人麻呂歌集』からの歌や作者未詳歌が多い中にあって異彩を放つ歌となっています。庶民生活の味わいが濃く出ていた人麻呂歌集の歌とは違い、繊細美を愛する貴族趣味が横溢しています。詠まれた時代も奈良時代であり、歌の趣きからも明らかです。大伴家持の周辺の人々を思わせるもので、あるいは家持の作かもしれないといわれています。「春日なる」は、春日にある。「御笠の山」は平城京から見て東にある山なので、月の出を待つ山。「月の舟」は、三日月の比喩。月の形が舟に似ているところから。「遊士」は、都風の風雅を解する人。「影に見えつつ」は、姿を見せ続けている。

 

朱らひく膚に触れずて・・・巻第11-2399

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朱(あか)らひく膚(はだ)に触れずて寝たれども心を異(け)しく我が念(も)はなくに

 

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今夜はお前の美しい肌にも触れずに一人寝したが、それでも決してお前以外の人を思っているわけではないからね。

 

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 「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。「朱らひく」は、赤い血潮がたぎる意で、血行がよく健康な肌のこと。「心を異しく」は、心が変わって。

 男の歌として解しましたが、どちらの歌かは不明です。男の歌だとすると、同宿したにもかかわらず相手の女の肌に触れなかったことを弁解しており、女の歌だとすると、何らかの事情で男に断って言った形のものです。いずれの場合も理由ははっきりしませんが、あるいはこの時代、女性は神事に奉仕する場合が多く、その期間は男女関係を断つことになっていたといいます。

 

柿本人麻呂歌集』について

 『万葉集』には題詞に人麻呂作とある歌が80余首あり、それ以外に『人麻呂歌集』から採ったという歌が375首あります。『人麻呂歌集』は『万葉集』成立以前の和歌集で、人麻呂が2巻に編集したものとみられています。

 この歌集から『万葉集』に収録された歌は、全部で9つの巻にわたっています(巻第2に1首、巻第3に1首、巻第3に1首、巻第7に56首、巻第9に49首、巻第10に68首、巻第11に163首、巻第12に29首、巻第13に3首、巻第14に5首。中には重複歌あり)。

 ただし、それらの中には女性の歌や明らかに別人の作、伝承歌もあり、すべてが人麻呂の作というわけではないようです。題詞もなく作者名も記されていない歌がほとんどなので、それらのどれが人麻呂自身の歌でどれが違うかのかの区別ができず、おそらく永久に解決できないだろうとされています。

 文学者の中西進氏は、人麻呂はその存命中に歌のノートを持っており、行幸に従った折の自作や他作をメモしたり、土地土地の庶民の歌、また個人的な生活や旅行のなかで詠じたり聞いたりした歌を記録したのだろうと述べています。