大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

東歌(36)・・・巻第14-3465

訓読 >>>

高麗錦(こまにしき)紐(ひも)解き放(さ)けて寝(ぬ)るがへに何(あ)どせろとかもあやに愛(かな)しき

 

要旨 >>>

華麗な高麗錦の紐を解き放って共寝をしたけれど、この上どうしろというのだ。無性に可愛いくてたまらない。

 

鑑賞 >>>

 国名のない東歌(未勘国歌)。「高麗錦」は、高麗から渡来した錦で、衣の紐としたことから「紐」の枕詞。「何どせろ」は「何とせよ」の東語で、どうしろというのか。「あやに」は、無性に。なお、高麗錦は在来の技術では作れない豪華な模様の織物であるため、東国でこのような高級品を知っていた、あるいは持っていたのは、一握りの豪族層であったと考えられます。それとも、恋を理想化した表現だったのかもしれません。

 

 

「東歌」の作者

 『万葉集』に収録された東歌には作者名のある歌は一つもなく、また多くの東国の方言や訛りが含まれています。全体が恋の歌であり、素朴で親しみやすい歌が多いことなどから、かつてこれらの歌は東国の民衆の生の声と見られていましたが、現在では疑問が持たれています。

 そもそも土地に密着したものであれば、民謡的要素に富む歌が多かったはずで、形式も多用な歌があったはずなのに、そうした歌は1首も採られていません。『万葉集』の東歌はすべての歌が完全な短歌形式(五七五七七)であり、音仮名表記で整理されたあとが窺えることや、方言が実態を直接に反映していないとみられることなどから、民謡そのものでなく、中央側が何らかの手を加えた歌、あえていえば民謡らしさを残した歌として収録されたものと見られています。

 従って、もともとの作者は土着の豪族階級の人たちで、都の官人たちが歌を作っているのを模倣した、また彼らから手ほどきを受けたのが始まりだろうとされます。すなわち、郡司となった豪族たちと、中央から派遣された国司らとの交流の中で作られ、それらを中央に持ち帰ったのが東歌だと考えられています。

 なお、「都」と「鄙」という言葉があり、「都」は「宮処」すなわち皇宮の置かれる場所であり、畿内(山城・大和・河内・和泉・摂津)を指します。「鄙」は畿外を意味しましたが、東国は含まれていません。『万葉集』でも東国は決して「鄙」とは呼ばれておらず、東国すなわち「東(あづま)」は、「都・鄙」の秩序から除外された、いわば第三の地域として認識されていたのです。東歌が特立した巻として存在する理由はそこにあります。