訓読 >>>
981
猟高(かりたか)の高円山(たかまとやま)を高みかも出(い)で来る月の遅く照るらむ
982
ぬばたまの夜霧(よぎり)の立ちておほほしく照れる月夜(つくよ)の見れば悲しさ
983
山の端(は)のささら愛壮士(えをとこ)天(あま)の原(はら)門(と)渡る光(ひかり)見らくし好(よ)しも
要旨 >>>
〈981〉猟高の高円山が高いからでしょうか、月がこんな遅くに山の端から出てきて照ってします。
〈982〉夜霧が立ちこめるなか、ぼんやり照っている月の姿を見るのは悲しいものです。
〈983〉山の端に出てきた小さな月の美男子が、天の原を渡りつつ照らす光の何とすばらしい眺めでしょう。
鑑賞 >>>
大伴坂上郎女が詠んだ「月の歌」3首。981の「猟高」は、高円山周辺の旧地名か。「高円山」は、奈良市春日山の南の丘陵地帯。この山麓に聖武天皇の高円離宮がありました。「高みかも」の「高み」は「高し」のミ語法で、高いゆえであろうか。「か」は、疑問の係助詞。「遅く照るらむ」の「らむ」は「か」の結びで連体形。高円山を東に臨む地にいての歌であるので、佐保の邸で詠んだものとみられます。「月夜」は、月、月の光。この歌は、この前にある阿倍虫麻呂の「雨隠る御笠の山を高みかも月の出で来ぬ夜は更けにつつ」(980)に和した作かといいます。
982の「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。「おほほしく」は、物のはっきりしない意、ぼんやり。ここは、心が物悲しく晴れない意で用いられています。「照れる月夜」の「月夜」は月そのものの意でも用いられますが、ここは文字通りの月夜。「の」は、下の「悲しさ」に続いています。
983の「山の端」は、山の空に接する所。「ささら愛壮士」の「ささら」は天上の地名、「愛壮士」は小さく愛らしい男の意で、月を譬えています。左注に、ある人が郎女に、月の別名をささらえ壮子というと話すと、郎女はその名に興味をもち、それを詠み込む形で一首にしようとした、とあります。「ささら愛壮士」を詠んだ歌は、集中この1首しかなく、月の中でも特に上弦の月をいったのではないかとする説もあります。「門渡る」の「門」は、ここでは山が両側にあって門のように空が狭くなっている所。「見らくし好しも」の「見らく」は「見る」のク語法で名詞形。「し」は、強意の副助詞。「好しも」の「も」は、詠歎。
大伴坂上郎女の略年譜
大伴安麻呂と石川内命婦の間に生まれるが、生年未詳(696年前後、あるいは701年か)
16~17歳頃に穂積皇子に嫁す
714年、父・安麻呂が死去
715年、穂積皇子が死去。その後、宮廷に留まり命婦として仕えたか
721年、藤原麻呂が左京大夫となる。麻呂の恋人になるが、しばらくして別れる
724年頃、異母兄の大伴宿奈麻呂に嫁す
坂上大嬢と坂上二嬢を生む
727年、異母兄の大伴旅人が太宰帥になる
728年頃、旅人の妻が死去。坂上郎女が大宰府に赴き、家持と書持を養育
730年 旅人が大納言となり帰郷。郎女も帰京
731年、旅人が死去。郎女は本宅の佐保邸で刀自として家政を取り仕切る
746年、娘婿となった家持が国守として越中国に赴任
750年、越中国の家持に同行していた娘の大嬢に歌を贈る(郎女の最後の歌)
没年未詳