大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

焼太刀を砺波の関に・・・巻第18-4085

訓読 >>>

焼太刀(やきたち)を砺波(となみ)の関(せき)に明日(あす)よりは守部(もりへ)遣(や)り添へ君を留(とど)めむ

 

要旨 >>>

焼いて鍛えた太刀、その太刀を研ぐという砺波の関に、明日からは番人を増やして、あなたにゆっくり留まっていただきましょう。

 

鑑賞 >>>

 天平勝宝元年(749年)5月5日、東大寺の占墾地使(せんこんじし)の僧(そう)平栄(へいえい)らをもてなした時、大伴家持が酒を僧に贈った歌。「占墾地使」は、寺院に認められた開墾地(荘園)の所属を確認する使者で、この時期、平栄らは越中に入って活動していました。

 東大寺や中央貴族の墾田地(荘園)を占有するため、国守の家持にもその行政力が期待されていました。家持が在任中に成立した越中国内の東大寺荘園は、天平21年(749年)4月1日詔書の「寺院墾田地許可令」にもとづき、射水郡4か所、砺波郡1か所、新川郡2か所の合計7か所から始まっています。「焼き太刀を」は「砺波」の枕詞。「砺波の関」は、越中と越前の国境にあった関。「守部」は番人、ここでは関所の役人。