大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

橘の花散る里の霍公鳥・・・巻第8-1472~1473

訓読 >>>

1472
霍公鳥(ほととぎす)来鳴きとよもす卯(う)の花の共にや来(こ)しと問はましものを
1473
橘(たちばな)の花散る里の霍公鳥(ほととぎす)片恋(かたこひ)しつつ鳴く日しぞ多き

 

要旨 >>>

〈1472〉ホトトギスが来て鳴き声を響かせている。卯の花といっしょにやって来たのかと、尋ねることができたらよいのに。

〈1473〉橘の花がしきりに散る里のホトトギスは、散った花に片恋をしては鳴く日が多いことだ。

 

鑑賞 >>>

 1472は、大伴旅人の妻が亡くなった時、勅命で大宰府に弔問に訪れた式部大輔石上堅魚朝臣(しきぶのだいふいそのかみのかつおあそみ)が詠んだ歌、1473は、旅人がそれに答えて詠んだ歌です。

 堅魚の歌が、卯の花がないまま鳴いているホトトギスを、妻を亡くした旅人に見立てているのに対し、旅人は橘の花を妻に喩え、花が散った後も鳴き続けるホトトギスを自分になぞらえています。当時の知識人の間では、卯の花も橘の花も、ホトトギスに無くてはならない取り合わせの景物とされており、これらの2首はその認識の上に立って詠まれています。

 当時は、高位の者に凶事があった際は、勅使をつかわして喪を弔うことと定められていました。従って堅魚の歌はその立場の必要から詠んだもので、さらに高官の旅人との身分の隔たりから、直接な物言いは避け、できるだけ婉曲な表現にしなければならなかったという事情があったようです。旅人は堅魚の歌が示すところを十分に理解し、緊密に関係させながらも、堅魚が妻を卯の花に擬したのを「橘の花」とし、その死を「花散る」とし、大宰府を「里」として、ホトトギスが相手の橘をなくして片恋しつつ鳴く悲しみをうたっています。

 なお、『源氏物語』の「花散里」の巻名のもとになった源氏の歌「橘の香をなつかしみほととぎす花散る里をたづねてぞとふ」は、旅人のこの歌がもとになっています。