大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

我が岡にさを鹿来鳴く・・・巻第8-1541~1542

訓読 >>>

1541
我(わ)が岡(をか)にさを鹿(しか)来鳴(きな)く初萩(はつはぎ)の花妻(はなづま)どひに来鳴くさを鹿

1542
我(わ)が岡(をか)の秋萩(あきはぎ)の花(はな)風をいたみ散るべくなりぬ見む人もがも

 

要旨 >>>

〈1541〉我が家の岡に壮鹿が来て鳴いている。初萩の花を妻として訪ね来て鳴いている牡鹿よ。

〈1542〉我が家の岡の秋萩の花は、風が強いので今にも散りそうになっている。その前に来て見る人があればいいのにな。

 

鑑賞 >>>

 大宰府に赴任している大伴旅人が詠んだ歌。1541の「我が岡」は、旅人が住んでいる岡の意で、大宰府の近くにある岡。「花妻」は、新婚時の妻の称で、鹿と萩との間に男女関係を認めるのは、鶯と梅、霍公鳥と卯の花と同様に、この時代の好尚でありました。1542の「風をいたみ」は、風が強いので。「もがも」は、願望。

 窪田空穂は、1541の歌について「落ち着いた迫らない態度を保ちつつ、美しく繊細な情趣を湛えている作で、老いた旅人の歌人としての風懐を思わせられる歌である」と言い、1542の歌について「調べも静かに、しめやかである。老いた旅人には花の散るのを惜しむ歌が多く、これもその一つである」と言っています。

 

大宰府について 

 律令制下の7世紀後半、筑前国(福岡県)に置かれた役所。九州と壱岐対馬を管理し、外敵の侵入を防ぎ、外国使節の接待などに当たりました。長官が帥(そち)で、その下に権(ごん)の帥、大弐、少弐などが置かれました。古くは「ださいふ」といい、また多くの史書では「太宰府」とも記されています。

 政庁の中心の想定範囲は現在の福岡県太宰府市筑紫野市にあたり、主な建物として政庁、学校、蔵司、税司、薬司、匠司、修理器仗所、客館、兵馬所、主厨司、主船所、警固所、大野城司、貢上染物所、作紙などがあったとされます。その面積は約25万4000㎡に及び、甲子園球場の約6.4倍にあたります。国の特別史跡に指定されています。

 長官の大宰帥従三位相当官、大納言・中納言クラスの政府高官が兼ねていましたが、平安時代になると、親王が任命され実際には赴任しないケースが大半となり、次席の大宰権帥が実際の政務を取り仕切るようになりました。