大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

紫は灰さすものぞ・・・巻第12-3101~3102

訓読 >>>

3101
紫(むらさき)は灰(はひ)さすものぞ海石榴市(つばきち)の八十(やそ)の衢(ちまた)に逢へる子や誰(た)れ

3102
たらちねの母が呼ぶ名を申(まを)さめど道行く人を誰(た)れと知りてか

 

要旨 >>>

〈3101〉紫は灰をさして作るもの、その灰を作る椿にちなむ海石榴市の、道が八方に分かれている広場で出逢ったあなたは、どこのどなたですか。

〈3102〉母が呼ぶ私の名を申し上げてもいいのですが、行きずりの誰とも分からないあなたのことを、どなたと知った上で申しましょうか。

 

鑑賞 >>>

 3101は男の求婚の歌、3102はそれに返した女の歌。3101の上2句は「海石榴市」を導く序詞。「紫は灰さすものぞ」は、紫染めには美しく発色させるための媒染剤として椿の灰汁(あく)を入れることを歌ったもので、女を「紫」に、自分を「灰」に譬えています。「海石榴市」は、奈良県桜井市金屋にあった市(いち)で、歌垣の場所としても知られています。「八十の衢」は道が四方八方に分かれている所。「逢へる子や誰」と名を訊ねるのは求婚を意味しました。

 3102の「たらちねの」は「母」の枕詞。「道行く人」は、行きずりの人。「誰れと知りてか」は、どなたと知って私の名を申しましょうか。相手が自分の名を名乗らずいきなり問うてきたのに対し、不審げに問い返しています。

 男は、貴い紫色も、灰を混ぜて一体とすることで初めて成り立つものだといって口説いており、詩人の大岡信は、「(紫と灰の)両者の混合、すなわち性交を暗示しているととれる。この歌には性的なほのめかしがあると考えていいだろう。少なくともこの歌のエロティシズムは、そこから来ている」と言っています。海石榴市の歌垣の謡い物として、古くから伝わった歌かもしれません。