訓読 >>>
1774
たらちねの母の命(みこと)の言(こと)にあらば年の緒(を)長く頼め過ぎむや
1775
泊瀬川(はつせがは)夕(ゆふ)渡り来て我妹子(わぎもこ)が家の金門(かなと)に近づきにけり
要旨 >>>
〈1774〉母の言われることなので、当てにさせたまま長くやり過ごすなんてことはありません。
〈1775〉泊瀬川を夕方に渡ってきて、いとしい女の家の門が近くなってきた。
鑑賞 >>>
舎人皇子(とねりのみこ)に献上したとある、『柿本人麻呂歌集』に出ている歌。1774の「たらちねの」は「母」の枕詞。「命」は、目上の人を敬っていう語。この歌の事情は複雑で、窪田空穂によれば、「娘が母に知らせずに男と結婚し、夫をその家へ通わせようとして、承認を得るために打明けると、母は自身としては承認するが、父や周囲の者に打明けることはしばらく時機を待ってのことにしようと言い、それを娘が男に話したところ、男はある不安を感じ、その時機というのはいつのことであろうか、ひどく先のことではなかろうかと危んだのに対して娘が、わが母のいうことなので、何年も先などということがあろうかと打消した」というものです。
1775の「泊瀬川」は、奈良県桜井市初瀬の峡谷に発し、三輪山の南を通り大和川に合流する川。「金門」は、門。恋人や妻を訪ねる時には、男は夜に出かけて朝暗いうちに帰るのがエチケットとされましたが、夕方に泊瀬川を渡ったというのは、道のりが遠かったためでしょう。次第に目ざす女の家に近づいた時のはやる心が感じられる歌であり、斎藤茂吉は「快い調子を持っており、伸々と、無理なく情感を湛えている」と評しています。なお、これらの歌がなぜ舎人皇子に献上されたかについては諸説があり未詳。