大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

安積皇子が亡くなった時に大伴家持が作った歌(2)・・・巻第3-478~480

訓読 >>>

478
かけまくも あやに畏(かしこ)し わが大君(おほきみ) 皇子(みこ)の命(みこと) もののふの 八十伴(やそとも)の男(を)を 召(め)し集(つど)へ 率(あども)ひたまひ 朝狩(あさがり)に 鹿猪(しし)踏み起こし 夕狩り(ゆふがり)に 鶉雉(とり)踏み立て 大御馬(おほみま)の 口(くち)抑(おさ)へとめ 御心(みこころ)を 見(め)し明(あき)らめし 活道山(いくぢやま) 木立(こだち)の茂(しげ)に 咲く花も 移ろひにけり 世の中は かくのみならし ますらをの 心振り起こし 剣大刀(つるぎたち) 腰に取り佩(は)き 梓弓(あづさゆみ)靫(ゆき)取り負ひて 天地(あめつち)と いや遠長(とほなが)に 万代(よろづよ)に かくしもがもと 頼めりし 皇子(みこ)の御門(みかど)の 五月蠅(さばへ)なす 騒(さは)く舎人(とねり)は 白栲(しろたへ)に 衣(ころも)取り着て 常(つね)なりし 笑(ゑ)まひ振舞(ふるま)ひ いや日異(ひけ)に 変(かは)らふ見れば 悲しきろかも

479
愛(は)しきかも皇子(みこ)の命(みこと)のあり通(がよ)ひ見(め)しし活道(いくぢ)の道は荒れにけり

480
大伴(おほとも)の名に負(お)ふ靫(ゆき)帯(お)びて万代(よろづよ)に頼みし心いづくか寄せむ

 

要旨 >>>

〈478〉心にかけるのも恐れ多い、我が大君(皇子)は多くの臣下を召し集め、引き連れられて、朝の狩りには鹿や猪を追い立て、夕べの狩りには鶉(うずら)や雉(きじ)を追い立てられ、そしてまた、大御馬の手綱を引いてあたりを眺め、御心を晴らされた活道の山よ、その木立の茂みに咲いていた花も、時移り、散り失せてしまった。世の中はこんなにはかないものか。男たちの雄々しい心を奮い立たせ、剣太刀を腰に帯び、弓を携え、靫を背負って、天地とともに末永く、万代までもお仕えしたいと頼みにしていた皇子。その御殿に、騒がしい蝿のように賑わしくお仕えしてきた舎人たちは、今では白装束に身を包み、かつての笑顔や振る舞いが、日増しに変わっていくのを見ると悲しくてしかたがない。

〈479〉愛おしい皇子が、いつも通われてご覧になっていた活道山への道は、今はもうすっかり荒れてしまった。

〈480〉大伴の名にふさわしい靫を帯びて、末永く頼みにしていた我らは、いったいどこへ心を寄せたらよいのか。

 

鑑賞 >>>

 475~477の歌に続き、安積皇子が薨じて71日目の3月24日に作った歌。478の「もののふの」は「八十伴の男」の枕詞。「八十伴の男」は、多くの部族の男たち。「率ひ」は、率いて。「活道山」は、所在未詳ながら、恭仁京近くの山か。「靫」は、矢を入れて背負う道具。「かくしもがも」は、このようであってほしい。「五月蠅なす」は「騒く」の枕詞。「いや日異に」は、日増しに。

 これらの歌には、安積皇子を将来の天皇として仰ぎ慕う心が強く浮き出ています。相次ぐ政争により天武天皇の子孫の多くが世を去り、新興貴族の藤原氏の勢力が拡大するなか、藤原氏出身でない母(県犬養広刀自)をもつ安積皇子に対する期待は、ことのほか強かったとみえます。