大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

石見の海角の浦廻を浦なしと・・・巻第2-131~134

訓読 >>>

131
石見(いはみ)の海 角(つの)の浦廻(うらみ)を 浦なしと 人こそ見らめ 潟(かた)なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも 鯨魚(いさな)取り 海辺(うみへ)を指して 和多津(にきたづ)の 荒磯(ありそ)の上に か青く生(お)ふる 玉藻(たまも)沖つ藻 朝羽(あさは)振る 風こそ寄らめ 夕羽(ゆふは)振る 波こそ来(き)寄れ 波の共(むた) か寄りかく寄る 玉藻なす 寄り寝し妹(いも)を 露霜(つゆしも)の 置きてし来れば この道の 八十隈(やそくま)ごとに 万(よろづ)たび かへり見すれど いや遠(とほ)に 里は離(さか)りぬ いや高(たか)に 山も越え来ぬ 夏草の 思ひ萎(しな)えて 偲(しの)ふらむ 妹が門(かど)見む なびけこの山

132
石見(いはみ)のや高角山(たかつのやま)の木(こ)の際(ま)より我(わ)が振る袖(そで)を妹(いも)見つらむか

133
小竹(ささ)の葉はみ山もさやにさやげどもわれは妹(いも)思ふ別れ来ぬれば

134
石見(いはみ)なる高角山(たかつのやま)の木(こ)の間ゆも我(わ)が袖(そで)振るを妹(いも)見けむかも

 

要旨 >>>

〈131〉石見の海の角の海岸を、よい浦などないと人は見るだろうが、よい干潟などないと人は見るだろうが、たとえよい浦はなくても、たとえよい干潟はなくても、私にとってはかけがえのない所、この海辺を指して、和田津の岩場のあたりに、青々とした玉藻や沖の藻を、朝、鳥が羽ばたくように風が吹き寄せ、夕べに鳥が羽ばたくように波が打ち寄せる。その波のままに、あちらへ寄ったりこちらへ寄ったりして揺らぐ美しい藻のように寄り添って寝た妻を、角の里に置いてきたので、この道の曲がり角、曲がり角ごとに幾度も振り返って見るけれど、いよいよ遠く、妻のいる里は離れてしまった。いよいよ高く、山も越えて来てしまった。妻は今頃は夏草のようにしおれて嘆いているだろう。その妻のいる家の門を遥かに見たい、なびき去れ、この山よ。

〈132〉妻の住む石見の角の里にある高い山の木の間から、私が袖を振る姿を、妻は見てくれただろうか。

〈133〉小竹の葉は山全体をさやさやと鳴り響かすようにさやいでいるが、私は妻のことばかり思っている、別れてきてしまったので。

〈134〉石見にある高角山の木の間からも私が袖を振ったのを、妻は見てくれただろうか。

 

鑑賞 >>>

 柿本人麻呂による、長歌反歌2首(134は、或る本の反歌)。作者は、国司として石見国(今の島根県西部)に赴任したことがあるらしく、現地で妻を娶っています。ここの歌は、役目により妻と別れて上京した時に詠んだもののようです。

 131の「角の浦廻」の「角」は地名で、江津市都野津町付近、「浦廻」は、海岸で湾曲している地形のこと。ここでは人麻呂の妻の家がある所。「よしゑやし」、ままよ。「よし」は、許容・放任する意で、「ゑ」は間投助詞、「やし」は、はやし言葉。「鯨魚取り」は「海」の枕詞。「和多津」は、江津市付近の土地。「わたづ」と読んで同市渡津とする説も。「か青く」の「か」は、接頭語。「朝羽振る」は、朝方に沖からの風で波が立つ様を鳥が羽を振る動作に見立てた表現。「夕羽振る」はその対。「波の共」は、波と共に。「露霜の」は「置く」の枕詞。「八十隈」の「八十」は、数の多さをいう語。「隈」は、道の曲がり角。「夏草の」は「萎えて」の枕詞。

 末尾の「なびけこの山」とあるのを、江戸時代の僧で国学者契沖は、「うごきなき物なるを、故郷のみえぬをわびて、せめてのことにいふは、歌のならひおもしろき事なり」と言い、動くはずのない山に「なびけ」と要求しているのは、妻のいる家恋しさに、せめてそうあってくれと願うものであり、それが「歌のならひ」、つまり歌の常のあり方としておもしろいところだと説いています。

 132の「石見のや」の「や」は、詠嘆の間投助詞。「高角山」は、角(都野津)付近の高い山の意か。この山の峠を越えると妻の住んでいる里の見えなくなる、いわゆる見おさめをする山だったのでしょう。袖を振るのは、衣服の袖には魂が宿っていると信じられており、離れた者との間で相手の魂を呼び招く呪術的行為でした。

 133の「み山」の「み」は、美称。「さやに」は、さやさやと。山の高い所には木立があり、その他は笹であったとみえます。高い所を去って、笹原の中の道を歩き続けている時の心境で、道行きとしての時間的進行を示しています。京への道を進みながらも、ひたすら妻のことを思っている心情が歌われています。

 なお、これら連作は、人麻呂の体験をもとにし、幾度かの推敲を経て発表されたものとする見方があります。その享受者は、こうしたロマンを求める後宮の女性たちだったといいます。