大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

あぢさはふ妹が目離れて・・・巻第6-942~945

訓読 >>>

942
あぢさはふ 妹が目(め)離(か)れて しきたへの 枕も巻かず 桜皮(かには)巻き 作れる舟に 真楫(まかぢ)貫(ぬ)き 我(わ)が榜(こ)ぎ来れば 淡路の 野島(のしま)も過ぎ 印南都麻(いなみつま) 辛荷(からに)の島の 島の際(ま)ゆ 我家(わぎへ)を見れば 青山の そことも見えず 白雲も 千重(ちへ)になり来ぬ 榜(こ)ぎたむる 浦のことごと 行き隠る 島の崎々 隈(くま)も置かず 思ひぞ我(わ)が来る 旅の日(け)長み

943
玉藻(たまも)刈る辛荷(からに)の島に島廻(しまみ)する鵜(う)にしもあれや家思はざらむ

944
島隠(しまがく)り吾(わ)が榜(こ)ぎ来れば羨(とも)しかも大和へのぼる真熊野(まくま)の船

945
風吹けば浪か立たむと伺候(さもらひ)に都多(つだ)の細江(ほそへ)に浦(うら)隠(がく)り居(を)り

 

要旨 >>>

〈942〉遠く離れて妻を見ることもできず、枕を交わすこともなく、桜の樹皮を巻いて造った船に櫂を取り付け、漕いで来ると、淡路島の野島が崎も過ぎ、印南都麻も過ぎて、辛荷の島のそばにやって来た。そこから我が家の方を見やれば、青々と重なる山のどのあたりとも見当がつかず、白雲が幾重にも重なるほど遠くなってしまった。漕ぎ巡ってきた浦々のどこでも、行き隠れる島の崎々のどこでも、一時も欠かすことなく、私は妻のことばかり思いながらやって来た、旅の日々が長くなってきたので。

〈943〉美しい藻を刈る辛荷の島をめぐり飛ぶ鵜だって、家にいる妻を思わないことがあろうか。

〈944〉島に隠れるように船を漕いでくると、羨ましいことに、大和へ上る熊野仕立ての船とすれちがったよ。

〈945〉風が吹くので沖の波は高いだろうと、様子をうかがい、都太の細江に一時退避していることだよ。

 

鑑賞 >>>

 難波津を船出し、辛荷の島を過ぎる時に、山部赤人が作った歌。瀬戸内海を西に進み、播磨国室津沖にある辛荷島へ着くまでの旅愁を詠んでいます。942の「あぢさはふ」は「目」の枕詞。「しきたへの」は「枕」の枕詞。「真楫貫き」は櫂を船の両舷に通して。「野島」は、淡路島北端の岬。「印南都麻」は、加古川河口の高砂市あたりか。「榜ぎたむる」は、榜ぎめぐる。「隈も置かず」は、残すところなく。「旅の日長み」とあるのは、行幸に供奉する赤人が、奈良を離れ、難波宮での相応期間の奉仕を経てのこととされます。

 944の「真熊野の船」の「真」は、接頭語。紀伊の熊野の船のことで、船の型からそう称されました。熊野は良質の木材の産地であると共に、外海に面しているので造船が盛んで、その高い技術によって造られた熊野船は全国的に知れ渡っていたようです。同様の語に、松浦(まつら)船、足柄小舟(あしがりおぶね)、伊豆手(いずて)船などがあります。945の「伺候」は、様子を見ながら待機すること。「都多の細江」は、姫路市飾磨区の沿岸。斎藤茂吉は、「読過のすえに眼前に光景の鮮かに浮んで来る特徴は赤人一流のもので、古来赤人を以て叙景歌人の最大なものと称したのも偶然ではない」と言っています。