大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

語り継ぐからにもここだ恋しきを・・・巻第9-1801~1803

訓読 >>>

1801
古(いにしへ)の ますら壮士(をとこ)の 相競(あひきほ)ひ 妻問(つまど)ひしけむ 葦屋(あしのや)の 菟原処女(うなひをとめ)の 奥(おく)つ城(き)を 我(わ)が立ち見れば 永(なが)き世の 語りにしつつ 後人(のちひと)の 偲(しの)ひにせむと 玉桙(たまほこ)の 道の辺(へ)近く 岩(いは)構(かま)へ 作れる塚(つか)を 天雲(あまくも)の そきへの極(きは)み この道を 行く人ごとに 行き寄りて い立ち嘆かひ 或る人は 音(ね)にも泣きつつ 語り継ぎ 偲ひ継ぎ来る 処女(をとめ)らが 奥(おく)つ城(き)所(ところ) 我(わ)れさへに 見れば悲しも 古(いにしへ)思(おも)へば

1802
古(いにしへ)の信太壮士(しのだをとこ)の妻問(つまど)ひし菟原処女(うなひをとめ)の奥(おく)つ城(き)ぞこれ

1803
語り継ぐからにもここだ恋(こひ)しきを直目(ただめ)に見けむ古壮士(いにしへをとこ)

 

要旨 >>>

〈1801〉はるか昔に、雄々しい男たちが競い争って求婚したという、葦屋の菟原乙女の墓所の前に立って眺めると、行く末長く語り草にして、後の人々が偲ぶよすがにしようと、道の近くに岩を組み合わせて造った塚。天雲のたなびく遠い果てからも、この道をやってくる誰もが立ち寄って、足を止めて嘆き、ある人は声を上げて泣き、後の世に語り継ぎ、偲び続けてきた乙女の眠る墓所。この私さえ、眺めていると悲しくなる。はるか昔のことを思うと。

〈1802〉はるか昔、遠くからやってきた信太壮士が求婚した菟原乙女。その乙女が眠る墓所なのだ、ここは。

〈1803〉語り継ぐだけでもこんなに恋しくてならないのに、じかに目にした古への男たちはどれほど恋いこがれたことだろうか。

 

鑑賞 >>>

 田辺福麻呂(たなべのさきまろ)が、葦屋(あしや)の処女(おとめ)の墓に立ち寄ったときに作った歌。先の時代に高橋虫麻呂がこの地に伝わる妻問い伝説を詠んだ歌(巻第9-1809~1811)をふまえての作歌ではないかとされます。菟原乙女は二人の男に求婚され、その板ばさみに苦しみ自殺したという伝説の美女です。

 「菟原」は、兵庫県芦屋市から神戸市にかけての地とされ、神戸市東灘区御影町には「処女(おとめ)塚」が、その東西1kmほどの所には二人の男の「求女(もとめ)塚」が残っています。菟原乙女は同じ郷里の菟原壮士よりも、他所から来た信太壮士(茅渟壮士)が好きだったようです。しかし、いくら心が傾いても、よそ者を受け入れることができなかったのです。

 1801の「奥つ城」は、奥深く眠っている所、墓の意。「玉桙の」は「道」の枕詞。「そきへ」は、遠方。「い立ち」の「い」は、接頭語。「嘆かひ」、嘆き続けること。1802の「信太」は、大阪府和泉市信太の地。1803の「ここだ」は、甚だしく、こんなにひどく。

 

(処女塚古墳の写真)