大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

荒墟となった恭仁京を悲しむ歌・・・巻第6-1059~1061

訓読 >>>

1059
三香原(みかのはら) 久邇(くに)の都は 山高く 川の瀬清み 住み良しと 人は言へども あり良しと 我(わ)れは思へど 古(ふ)りにし 里にしあれば 国見れど 人も通はず 里見れば 家も荒れたり はしけやし かくありけるか 三諸(みもろ)つく 鹿背山(かせやま)の際(ま)に 咲く花の 色めづらしく 百鳥(ももとり)の 声なつかしき ありが欲(ほ)し 住みよき里の 荒るらく惜(を)しも

1060
三香(みか)の原(はら)久邇(くに)の京(みやこ)は荒れにけり大宮人(おほみやひと)の移ろひぬれば

1061
咲く花の色は変はらずももしきの大宮人(おほみやひと)ぞ立ちかはりける

 

要旨 >>>

〈1059〉三香の原の久邇の都は、山が高く、川の瀬が清らかで住みよいところと人は言うけれど、私も居心地がよいところと思うけれども、今はもう古くなった里なので、国を見ても人は通わない。里を見ても家も荒れている。ああ、この都はこうなってしまう定めだったのか。神社が鎮座する鹿背山のあたり一帯に咲く花の色は美しく、たくさんの鳥たちの鳴き声もなつかしい。いつまでも居たいと思うこの住みよい里が、日に日に荒廃していくのが惜しい。

〈1060〉三香の原の久邇の都は荒れ果ててしまった。大宮人たちが移り去ってしまったから。
 
〈1061〉咲いている花の色は変わらないのに、大宮人は新しい都へ移ってしまってもう居ない。

 

鑑賞 >>>

 田辺福麻呂(たなべのさきまろ)の、「春の日に、三香原(みかのはら)の荒墟(こうきょ)を悲傷(かな)しびて作る歌」。恭仁京は、天平12年「740年)12月に聖武天皇の勅命によって平城京から遷都され造営が始まりましたが、同15年の末には中止され、同16年(744年)2月の難波遷都によって、未完成のまま旧都となりました。「三香原」は、京都府木津川市鹿背山の東北に広がる盆地。

 1059の「古りにし里」は、故里で、故京。「はしけやし」は、ああ慕わしい、ああ惜しいかな。「三諸」は、神の社。「鹿背山」は、京都府木津市にある山。「めづらしく」は、愛すべく、美しく。「百鳥」は、多くの鳥。「ありが欲し」は、住んでいたい。1061の「ももしきの」は「大宮」の枕詞。「立ちかはりける」は、移り去ってしまった。

 田辺福麻呂は『万葉集』末期の官吏で、天平 20年 (748年) に橘諸兄の使いとして越中国におもむき、国守の大伴家持らと遊宴し作歌しています。そのほか恭仁京難波京を往来しての作歌や、東国での作もあります。柿本人麻呂山部赤人の流れを継承するいわゆる「宮廷歌人」的な立場にあったかとされますが、橘諸兄の勢力退潮と呼応するかのように福麻呂の宮廷歌は見られなくなっています。『万葉集』に44首の歌を残しており、そのうち「田辺福麻呂の歌集に出づ」とある歌も、用字や作風などから福麻呂の作と見られています。