訓読 >>>
210
うつせみと 思ひし時に 取り持ちて わが二人見し 走出(はしりで)の 堤(つつみ)に立てる 槻(つき)の木の こちごちの枝の 春の葉の 茂きが如く 思へりし 妹にはあれど たのめりし 児らにはあれど 世の中を 背(そむ)きし得ねば かぎろひの 燃ゆる荒野(あらの)に 白妙(しろたへ)の 天(あま)領巾(ひれ)隠り 鳥じもの 朝立ちいまして 入日なす 隠りにしかば 吾妹子が 形見に置ける みどり児の 乞ひ泣くごとに 取り与ふる 物し無ければ 男じもの 腋(わき)ばさみ持ち 吾妹子と 二人わが宿(ね)し 枕づく 嬬屋(つまや)の内に 昼はもうらさび暮し 夜はも 息づき明(あか)し 嘆けども せむすべ知らに 恋ふれども 逢ふ因(よし)を無み 大鳥の 羽易(はがい)の山に わが恋ふる 妹は座(いま)すと 人の言へば 石根(いはね)さくみて なづみ来し 吉(よ)けくもぞなき うつせみと 思ひし妹が 玉かぎる ほのかにだにも 見えなく思へば
211
去年(こぞ)見てし秋の月夜は照らせども相(あひ)見し妹はいや年さかる
212
衾道(ふすまぢ)を引手(ひきで)の山に妹を置きて山道(やまぢ)を行けば生けりともなし
要旨 >>>
〈210〉妻はずっとこの世の人だと思っていた時、手を取り合って私たち二人が見た、突き出た堤に立っていた槻の木の、あちらこちらの枝に春の葉がたくさん茂っていたように、思い続けた妻であったが、頼りにしてきた妻であったが、無常の世の道理に背くことはできず、陽炎(かげろう)がゆらめく荒野に、真っ白な天女の領巾に覆われて、鳥でもないのに朝早く飛び立ってしまい、夕日のように隠れてしまったので、妻が形見として残していった幼な子が、何かを欲しがり泣くたびに、与えるものも無く、男だというのに脇に抱えて、いとしい妻と寝た離れの中で、昼には心寂しく過ごし、夜にはため息をついて明かし、いくら嘆いてもどうしようもなく、恋焦がれても逢えず、羽易の山に妻がいると人が言ってくれるので、大地に根を張ったような大きな岩を踏み分けて、骨折りながらやって来たものの、その甲斐も無い。ずっとこの世の人だと思っていた妻が、玉の光ほどにほのかにも見えないことを思うと。
〈211〉去年に見た秋の月は変わらず照ってはいるが、一緒に眺めた妻は、年月とともにますます遠ざかっていく。
〈212〉引手の山に妻を置いて、寂しい山道を帰っていくと、とても自分が生きているとは思われない。
鑑賞 >>>
207~209の続きで、長歌と短歌2首。妻が死んでも日常は繰り返され、それがいっそう妻への思いを深めてしまう・・・。ただし、歌の内容からは、207~209と210~212とは別人の妻と見られます。初めの軽の妻が死んだのは秋であり、人麻呂がそれを知って軽の地へ行った時は、すでに葬儀は終り、妻の亡骸は折から黄葉している山へ葬られていた時であることがわかります。
一方、210~212の季節は春のようであり、人麻呂は妻の葬儀に立ち合い、少なくとも野辺送りされる柩を目にしています。さらに残された乳呑児を、妻に代って見なくてはならないという状態であり、また、妻の死後、人麻呂とその周囲の人との交渉があるところから、この妻は軽の妻が人目を憚っていたのとは異なり、同棲をしていたものと取れます。一夫多妻の時代でしたから、二人の妻を同時にもっていたとしても怪しむべきことではありません。あるいは前後していたものかもしれませんが、そのあたりは不明です。
210の「うつせみ」は、現(うつ)し身の転で、この世にある身。「こちごち」は、あちらこちら。「児ら」の「ら」は接尾語。「鳥じもの」は、鳥でもないのに鳥であるかのように、の意。「入り日なす」「枕づく」「大鳥の」は、それぞれ「隠り」「嬬屋」「羽易」の枕詞。「羽易」は、鳥のたたんだ翼が背で交わるところ。「みどり児」は1~3歳の幼児。「羽易の山」は所在未詳ながら、天理市と桜井市にまたがる竜王山という説があります。「玉かぎる」は「ほのか」の枕詞。「石根さくみて」の「さくむ」は、踏み分ける。
210の「なづみ来し」の「なづむ」は、行き悩む。211の「いや年さかる」の「いや」は、ますます。212の「衾道を」は、意味不明ながら「引手」の枕詞か。「引手の山」は所在不明ながら、天理市中山の東にある竜王山とする説があります。「生けりともなし」は、生きている気もしない。
なお、これら「泣血哀慟歌」は、巻第2-131以下の石見相聞歌と同じく、人麻呂の体験を題材にして創作され、宮廷サロンの享受に具された作であるとの見方があります。