大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

奈良の故郷を悲しびて作る歌・・・巻第6-1047~1049

訓読 >>>

1047
やすみしし 我(わ)が大君(おほきみ)の 高敷(たかし)かす 大和の国は 皇祖(すめろき)の 神の御代(みよ)より 敷きませる 国にしあれば 生(あ)れまさむ 御子(みこ)の継(つ)ぎ継ぎ 天(あめ)の下 知らしまさむと 八百万(やほよろづ) 千年(ちとせ)をかねて 定めけむ 奈良の都は かぎろひの 春にしなれば 春日山(かすがやま) 三笠の野辺(のへ)に 桜花(さくらばな) 木(こ)の暗(くれ)隠(がく)り 貌鳥(かほとり)は 間(ま)なくしば鳴き 露霜(つゆしも)の 秋さり来れば 生駒山(いこまやま) 飛火(とぶひ)が岳(たけ)に 萩の枝(え)を しがらみ散らし さを鹿(しか)は 妻呼び響(とよ)む 山見れば 山も見が欲(ほ)し 里見れば 里も住み良し もののふの 八十伴(やそとも)の男(を)の うちはへて 思へりしくは 天地(あめつち)の 寄り合ひの極(きは)み 万代(よろづよ)に 栄え行かむと 思へりし 大宮すらを 頼めりし 奈良の都を 新代(あらたよ)の 事にしあれば 大君の 引きのまにまに 春花(はるはな)の 移ろひ変り 群鳥(むらとり)の 朝立(あさだ)ち行けば さす竹の 大宮人(おほみやびと)の 踏みならし 通(かよ)ひし道は 馬も行かず 人も行かねば 荒れにけるかも

1048
立ちかはり古き都となりぬれば道の芝草(しばくさ)長く生(お)ひにけり

1049
馴(な)つきにし奈良の都の荒れゆけば出(い)で立つごとに嘆きし増さる

 

要旨 >>>

〈1047〉われらの大君が治めていらっしゃる大和の国は、皇祖の神の御代よりずっとお治めになっている国であるから、お生まれになる代々の御子が次々にお治めになるべきものとして、千年にも万年にもわたる都として定められたこの奈良の都は、かげろうの立つ春ともなれば、春日山や三笠の野辺に桜の花が咲き、その木陰でカッコウが絶え間なく鳴く。露霜の降りる秋ともなれば、生駒山の飛火が岳で、萩の枝をからませ散らして、牡鹿が妻を呼んで鳴き立てる。山を見れば見飽きることがなく、里は里で住み心地がよい。大宮人たちもずっと心に思っていたことは、天地の果ての先まで、万代の後までずっと栄え続けるだろうと頼みにしていた奈良の都。新しい御代になったということで、大君の仰せのままに、春の花々が移り変わるように都を遷され、群れ鳥が朝にいっせいに飛び立つように大宮人たちは立ち去っていった。今まで大宮人たちが踏みならして通っていた道は馬も人も通わなくなり、すっかり荒れ果ててしまった。

〈1048〉あんなに繁栄していた昔とかわって、今は故京となってしまったので、道の雑草もこんなに長く生い茂っている。

〈1049〉馴れ親しんだ奈良の都が荒れていくので、外に出て見るたびに嘆きがつのることだ。

 

鑑賞 >>>

 田辺福麻呂(たなべのさきまろ)の「奈良の故郷を悲しびて作る歌」。天平12年(740年)、聖武天皇は、京都南部・木津川あたりに恭仁宮(久邇宮)の造営に着手、和銅3年から30年余り続いた平城の都からの、唐突な遷都でした。その理由は諸説あり、大仏建立のための適地を求めた天皇の意思と、自らの勢力圏に都を移したい右大臣・橘諸兄の思惑が一致したからともいわれます。計画では平城京をしのぐ大規模な京域を設定していたようですが、途中で中止されました。

 田辺福麻呂は『万葉集』末期の官吏で、天平 20年 (748年) に橘諸兄の使いとして越中国におもむき、国守の大伴家持らと遊宴し作歌しています。そのほか恭仁京難波京を往来しての作歌や、東国での作もあります。柿本人麻呂山部赤人の流れを継承するいわゆる「宮廷歌人」的な立場にあったかとされますが、橘諸兄の勢力退潮と呼応するかのように福麻呂の宮廷歌は見られなくなっています。『万葉集』に44首の歌を残しており、そのうち「田辺福麻呂の歌集に出づ」とある歌も、用字や作風などから福麻呂の作と見られています。

 1047の「やすみしし」「かぎろひの」「露霜の」「春花の」「群鳥の」「さす竹の」は枕詞。「高敷かす」は、立派に統治なさる意。「貌鳥」は、未詳ながらカッコウではないかとされます。「しば鳴き」の「しば」は、しきりに。「生駒山」は、奈良県生駒市大阪府東大阪市の間にある山。「飛火が岳」は、合図のための烽火台がある峰で、ここでは春日山の麓、飛火野と呼ばれるあたり。「八十伴の男」は、朝廷に仕える多くの役人の意。「うちはへて」は、ずっと続けて。1049の「なつきにし」は、馴れ親しんだ。「嘆きし」の「し」は、強意。