訓読 >>>
隼人(はやひと)の薩摩(さつま)の瀬戸を雲居(くもゐ)なす遠くも我(わ)れは今日(けふ)見つるかも
要旨 >>>
隼人の住む薩摩の瀬戸よ、その瀬戸を、空の彼方の雲のように遙か遠くだが、私は今この目に見納めた。
鑑賞 >>>
長田王が筑紫に派遣され、薩摩国に赴いたときに作った歌。『万葉集』の歌のなかで、最も南の地で詠まれた歌とされ、船中にあって、海上遠く薩摩の瀬戸を眺望して詠んだ趣きです。当時の薩摩は、朝廷の影響力がなかなか及ばず、問題の多い所だったといいます。「隼人」は、大隅・薩摩地方の精悍な部族で、朝廷への敵対した後には、宮の守護や歌舞の演奏などをして仕えたといいます。「薩摩の瀬戸」は、鹿児島県阿久根市黒之浜と天草諸島の長島との間の海峡。
なお、巻第1に、和銅5年(712年)4月に、長田王が伊勢の斎宮(伊勢神宮)に遣わされたときに山辺の御井で作ったとある81~83の歌のうち、左注に「山辺の御井で作った歌には見えない」とある82・83の歌は、むしろこの歌と脈絡がつくものです。王が筑紫に派遣された理由が、もし、81の斎宮侵犯による、体のいい配流だったとすれば、歌に漂う寂寥とした空虚感も何となく理解できるところです。
『万葉集』の歌の舞台は日本中に広がっており、北は陸奥(宮城県)から南は薩摩(鹿児島県)にまで及んでいます。これをほとんど都中心の王朝の文学と比べると、そこにも一つ、『万葉集』の大きな特徴を見出すことができます。しかもその歌の風土はほとんどが実際にその場所で詠まれたもので、知識や想像のみによって土地の名前を詠み込んだというものではありません。