大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

旅人の妻の死を悼んで山上憶良が詠んだ歌・・・巻第5-794~799

訓読 >>>

794
大君(おほきみ)の 遠(とほ)の朝廷(みかど)と しらぬひ 筑紫の国に 泣く子なす 慕ひ来まして 息だにも いまだ休めず 年月も いまだあらねば 心ゆも 思はぬ間に うちなびき 臥(こや)しぬれ 言はむ術(すべ) 為(せ)む術知らに 石木(いはき)をも 問ひ放(さ)け知らず 家ならば 形(かたち)はあらむを うらめしき 妹の命(みこと)の 吾(あれ)をばも 如何(いか)にせよとか 鳰鳥(にほどり)の 二人並び居 語らひし 心(こころ)背(そむ)きて 家ざかりいます

795
家に行きて如何にか吾(あ)がせむ枕づく妻屋さぶしく思ほゆべしも

796
愛(は)しきよしかくのみからに慕ひ来し妹が情(こころ)の術(すべ)もすべなさ

797
悔しかもかく知らませばあをによし国内(くぬち)ことごと見せましものを

798
妹が見し楝(あふち)の花は散りぬべし我が泣く涙いまだ干(ひ)なくに

799
大野山(おほのやま)霧(きり)たちわたる我が嘆く息嘯(おきそ)の風に霧たちわたる

 

要旨 >>>

〈794〉大君の遠い政府(大宰府のこと)だからと、筑紫の国に、泣く子どものようにだだをこねて慕ってついてきてくれて、一息つくほどにも休めず、年月も経っていないのに、心にも少しも思わないうちに、ぐったりと横になってしまった。どう言っていいのか、どうしたらいいのか分からずに、庭石や木に尋ねて心を晴らそうとしても、それもできない。あのまま奈良の家にいたならば元気な姿であっただろうに、私を置いて逝ってしまった恨めしい妻は、私にどうせよというのか。鳰鳥のように二人並んで語らいをしたその誓いに背いて、家を離れて遠くに行ってしまった。

〈795〉奈良の家に帰ったら、私はどうしたらいいのか。枕を並べた妻屋が寂しく思われて仕方がないだろう。

〈796〉ああ、こうなる定めだったのか。追い慕って筑紫までやって来た妻の心が、どうしようもなく痛ましい。

〈797〉悔やんでならない。こんなことになると知っていたなら、筑紫の国じゅうをくまなく見物させておくのだった。

〈798〉妻が生前喜んで見た庭の楝(=栴檀)の花は、もう散ってしまったにちがいない。妻を悲しんで泣く私の涙がまだ乾きもしないのに。

〈799〉大野山に霧が立ちわたり、山をすっかり覆い隠してしまった。私が吐く溜息の風によって、霧が山を覆い隠してしまった。

 

鑑賞 >>>

 神亀5年(728年)7月21日、筑前守の山上憶良が、妻の大伴郎女を亡くした大伴旅人に奉った歌で、百日の供養の頃の作歌とされます。憶良が旅人になりかわって、亡くなった妻への挽歌をうたうという、特異な形式の作です。歌にある「吾」は、憶良がなりかわった旅人のことです。

 筑前の国守として九州へ下った憶良と、1~2年遅れて大宰帥として赴任してきた旅人は、年齢も近く(憶良が5歳くらい年長)、ともに風雅を好む知識人であったことから、位階の差を越えて親密に交流していました。旅人の妻の死の悲しみは、同時に憶良の悲しみでもあったようです。歌の内容から、妻の郎女は無理に大宰府についてきたことが窺えます。慣れない長旅の疲れがたたったのでしょうか。

 794の「しらぬひ」は「筑紫」の枕詞。「泣く子なす慕ひ来まして」からは、妻の郎女が、都にいろと言われても聞かずについてきたことが窺えます。795の「枕づく」は「妻屋」の枕詞。「妻屋」は夫婦の部屋。797の「あをによし」は本来は「奈良」の枕詞ですが、ここでは「国内」にかかっています。斎藤茂吉は、「国内」を奈良の意味に取るのではなく、筑紫の国々と取らねば具合が悪い、と言っています。憶良は必ずしも伝統的な日本語を使わぬことがあるので、あるいは「あをによし」の意味をただ山川の美しいというぐらいの意に取ったものと考えられる、と。798の「楝の花」は栴檀(せんだん)の花。799の「大野山」は大宰府の背後にある山。

 作者の山上憶良(660~733年)は、藤原京時代から奈良時代中期に活躍し、漢文学や仏教の豊かな教養をもとに、貧・老・病・死、人生の苦悩や社会の矛盾を主題にしながら、下層階級へ温かいまなざしを向けた歌を詠んでいます。ただ、大宝元年(701年)に、42歳で遣唐使四等官である少録に任命されるまでの憶良の前半生は謎に包まれており、出自や経歴は未詳です。憶良と似た名前が百済からの渡来人の名に見えることや、漢籍の影響が著しいことなどから、渡来人であるとする説があるものの、定説には至っていません。