訓読 >>>
823
梅の花散らくはいづくしかすがにこの城の山に雪は降りつつ
824
梅の花散らまく惜(を)しみわが園(その)の竹の林に鶯(うぐひす)鳴くも
825
梅の花咲きたる園(その)の青柳(あをやぎ)を蘰(かづら)にしつつ遊び暮らさな
要旨 >>>
〈823〉梅の花が散るというのは何処のことか。この城の山には雪があとからあとから降ってくる。
〈824〉梅の花が散っていくのを惜しみ、私の庭の竹林で、ウグイスがしきりに鳴いている。
〈825〉梅の花が咲いているこの園の、青柳を髪飾りにして、終日のんびりと遊び暮らそう。
鑑賞 >>>
823は、大伴百代(おおとものももよ)の歌。
824は、阿氏奥島(あしのおきしま)の歌。
825は、土氏百村(とじのももむら)の歌。
大宰府での宴で詠まれた「梅花の歌」全32首のうちの5首です。32首の内訳は、前半の15首が上席、後半の17首が下席の歌となっており、ここの5首は上席者が詠んだ歌です。それにしても、宴には文芸に秀でた役人ばかりを集めたのか、それとも当時の役人はみな相当程度の文学素養を備えていたのでしょうか。会席の配置は、上席が主人の旅人を別の座に7人ずつが向かい合い、下席は幹事の者を別の座に8人ずつが向かい合っていたといいます。
なお、これらの歌が詠まれた正月13日(2月8日)に大宰府辺りの梅が満開だった、または散る様子が見られた可能性は低いため、咲いている梅を想像して詠んだものか、あるいはこの宴そのものが虚構ではないかと見る向きもあります。大伴旅人の同族だった大伴百代は、823で「梅の花が散るというのは何処のことか。この城の山には雪があとからあとから降ってくる」と忌憚のない詠み方をしています。
筑紫歌壇
大伴旅人が大宰帥として筑紫に赴任していたのは、神亀5年(728年)春から天平2年(730年)12月までのおよそ3年間ですが、その間、小野老、山上憶良、沙弥満誓、大伴四綱、大伴坂上郎女など、錚々たる 万葉歌人も、当時の筑紫に都から赴任していました。大宰帥の大伴旅人邸には、これらの歌人が集い、あたかも中央の文壇がこぞって筑紫に移動したような、華やかなサロンを形成していたようです。
といっても、具体的な組織があったとか、各人に強い結びつきがあったとかではなく、たまたま同じ時期に大宰府に居合わせた者同士が、宴会で歌を披露したり書簡で歌のやり取りをしたりしていただけのことです。しかし、この集団は、筑紫という辺境の地において、都とは異なる独自の作歌活動を展開しました。その活動がとても特徴的だったために、「筑紫歌壇」と称されています。その特徴を一言で言うと、漢詩文と和歌の融合ということができます。その典型的なあり方が、上掲の「梅花の歌」です。