訓読 >>>
1809
葦屋(あしのや)の 菟原処女(うなひをとめ)の 八年子(やとせこ)の 片生(かたお)ひの時ゆ 小放(をばな)りに 髪たくまでに 並び居(を)る 家にも見えず 虚木綿(うつゆふ)の 隠(こも)りて居(を)れば 見てしかと いぶせむ時の 垣ほなす 人の問ふ時 茅渟壮士(ちぬをとこ) 菟原壮士(うなひをとこ)の 伏屋(ふせや)焚(た)き すすし競(きほ)ひ 相よばひ しける時は 焼太刀(やきたち)の 手かみ押しねり 白真弓(しらまゆみ) 靫(ゆき)取り負ひて 水に入(い)り 火にも入(い)らむと 立ち向ひ 競ひし時に 我妹子(わぎもこ)が 母に語らく しつたまき いやしき我が故(ゆゑ) ますらをの 争ふ見れば 生けりとも 逢ふべくあれや ししくしろ 黄泉(よみ)に待たむと 隠(こも)り沼(ぬ)の 下延(したは)へ置きて うち嘆き 妹(いも)が去(い)ぬれば 茅渟壮士 その夜 夢(いめ)に見 とり続き 追ひ行きければ 後れたる 菟原壮士い 天(あめ)仰ぎ 叫びおらび 地(つち)を踏み きかみたけびて もころ男に 負けてはあらじと 懸(か)け佩(は)きの 小太刀(をだち)取り佩(は)き ところづら 尋(と)め行きければ 親族(うがら)どち い行き集(つど)ひ 長き代(よ)に 標(しるし)にせむと 遠き代に 語り継がむと 娘子(をとめ)墓(はか) 中に造り置き 壮士(をとこ)墓 このもかのもに 造り置ける 故縁(ゆゑよし)聞きて 知らねども 新喪(にひも)のごとも 哭(ね)泣きつるかも
1810
葦屋(あしのや)の菟原処女(うなひをとめ)の奥津城(おくつき)を行き来(く)と見れば哭(ね)のみし泣かゆ
1811
墓(つか)の上の木(こ)の枝(え)靡(なび)けり聞きし如(ごと)茅渟壮士(ちぬをとこ)にし寄りにけらしも
要旨 >>>
〈1809〉葦屋の菟原乙女は、幼い頃から垂らした髪を結い上げる年ごろになるまで、近くの人たちにも姿を見せず家の中にこもって暮らしていた。一目見たいと人垣をつくって言い寄る男たちの中で、とりわけ茅渟壮士と菟原壮士が競い合って求婚した。太刀の柄をひねり、白い弓と靫を背負い、菟原乙女のためなら水にも火にも入ろうと争った。
その時、菟原乙女が母親に言うには、「つまらない私ゆえに立派な男子が命懸けで争うのを見ると、生きていてもどちらとも結婚するわけにはいきません、あの世でお待ちしましょう」と。そうして菟原乙女は本心を隠し、嘆きながらこの世を去った。
茅渟壮士はその夜夢に見て後を追うと、後れた菟原壮士は天を仰いで叫び、地団駄を踏み歯軋りをして、負けてはいられないと、小太刀を帯びて後を追った。
親族たちが集まり、永久に語り継ぐために、菟原処女の墓を真ん中に、二人の壮士の墓を右と左に造った。その因縁を聞き、遠い昔のことながら、今亡くなったかのように思えて泣いたのだった。
〈1810〉葦屋の菟原乙女の墓を、行き帰りに見ていると、声を出して泣いてしまう。
〈1811〉墓の上に木の枝がなびいている。やはり伝え聞く話のとおりに、菟原乙女は茅渟壮士に心を寄せていたらしい。
鑑賞 >>>
題詞には「菟原処女の墓(はか)を見たときの歌一首と短歌」とあり、高橋虫麻呂が葦屋(兵庫県芦屋市)に伝わる妻争い伝説を詠んだ歌です。菟原乙女は二人の男に求婚され、その板ばさみに苦しんで自殺したという伝説の美女です。
菟原は、この辺りから神戸市にかけての地とされ、神戸市東灘区御影町には「処女(おとめ)塚」が、その東西1kmほどの所には二人の男の「求女(もとめ)塚」が残っています。菟原乙女は同じ郷里の菟原壮士よりも、他所から来た茅渟壮士が好きだったようです。しかし、いくら心が傾いても、よそ者を受け入れることができなかったのです。
1809の「虚木綿の」「伏せ屋焚き」「倭文たまき」「ししくしろ」「隠り沼の」「ところづら」は枕詞。「片生ひ」は、まだ十分に成長していないこと。「小放り」は、若い女性の髪形。「茅渟」は、大阪府堺市から岸和田市にかけての地。「いぶせむ」は、もどかしくやきもきする。「垣ほなす」は、垣のように取り囲んで。「すすし」は語義未詳。「よばひ」は求婚。「焼大刀」は、何度も焼いて鍛えた太刀。「靫」は、矢を入れて背に負う武具。「下延へ」は、本心を秘めておいて。「もころ男」は、かたきの男。「このもかのもに」は、あちらとこちらに。
1810の「奥つ城」は、墓。「行き来と」は、行き帰りに。1811の「木の枝靡けり」は、木の枝が一方に靡いている。「聞きし如」は、伝え聞く話のとおりに。「寄りにけらしも」の「らし」は、強い推量。墓に植えた木が、思い合う同士で靡き合うという発想は、中国・六朝時代の古詩『焦仲卿の妻の為に作る』などにも見えます。
菟原乙女の伝説は当時から有名だったらしく、大伴家持や田辺福麿などもこの話を素材に、歌を詠んでいます。中でも田辺福麿の「古への小竹田壮士の妻問ひし菟会処女の奥津城ぞこれ」の歌碑が、現在、処女塚の西のわきに置かれています。平安時代に書かれた『大和物語』にもこの話は載っており、乙女が死ぬ間際に詠んだという「住みわびぬ我が身投げてむ津の国の生田の川は名のみなりけり」という歌があります。後には観阿弥による謡曲『求塚』に発展し、さらには森鴎外の戯曲『生田川』にも採り上げられています。
高橋虫麻呂は、『万葉集』に長歌14首、短歌19首、旋頭歌1首。作者に異説ある長・短歌各1首を残しています。歌人としての評価は分かれ、歌人・国文学者の森本治吉は、虫麻呂は素材の上からはロマンチストであるが、表現ないし表現内容の点からは類稀なるリアリストであり、想念の深所に沈潜する作家でなく、愉快なおしゃべりやであるとして、情感、余情のある作品は一首もないと批評、また土屋文明は、それぞれの歌に対し、無力なる作者、貧弱、傍観的、散漫、粗略、特色なし、誇張虚飾、平凡等々の語を連ねて批判、さらに、巻第9は目ぼしい作品は少なく、集中の一つの谷間だから是非しんぼうして通過してほしいとも述べています。
しかし一方で、国文学者の井村哲夫の、「(虫麻呂は)よく『旅の歌人』『伝説歌人』などと呼ばれるが、その本質は繊細な孤愁をにじませ、あこがれ出る心を歌い上げる浪漫的作者として異色の万葉歌人である。叙述にあたっては、名詞と動詞をたたみかけるように用いて事物の動きや事態の進展を活写し、華麗な饒舌ともいうべきスタイルを成す」のような評価もあります。また犬養孝は、虫麻呂の歌の美的構築の巧みさにひそむ彼の本音のメッセージを感じ取り、虫麻呂文芸の本質こそ、「孤愁のひと」に発すると述べています。