訓読 >>>
4017
あゆの風 いたく吹くらし奈呉(なご)の海人(あま)の釣(つり)する小船(をぶね)漕(こ)ぎ隠(かく)る見ゆ
4018
港風(みなとかぜ)寒く吹くらし奈呉(なご)の江に妻呼び交(かは)し鶴(たづ)多(さは)に鳴く [一云 鶴騒くなり]
4019
天離(あまざか)る鄙(ひな)ともしるくここだくも繁(しげ)き恋かもなぐる日もなく
4020
越(こし)の海の信濃(しなの)の浜を行き暮らし長き春日(はるひ)も忘れて思へや
要旨 >>>
〈4017〉東風が激しく吹いているようだ。奈呉で海人たちが釣りする小舟が、浦陰に漕ぎ隠れて行くのが見える。
〈4018〉河口に寒々と風が吹いているようだ。奈呉の入り江では、連れ合いを呼び合って、鶴がたくさん鳴いている(鶴の鳴き立てる声がする)。
〈4019〉遠く遠く離れた鄙の地というのは、なるほどもっともだ。こんなにも故郷が恋しくて、心のなごむ日とてない。
〈4020〉越の海の、信濃の浜を歩いて日を過ごし、こんなに長い春の一日でさえ、京恋しさを忘れることはない。
鑑賞 >>>
天平20年(748年)正月29日の大伴家持の作。4017の「あゆの風」は、越の俗の語には「東風」を「あゆのかぜ」という、との注記があります。現在でも富山県の人々が用いている言葉だといいます。「奈呉」は、高岡市から射水市にかけての海岸。4019の「天離る」は「鄙」の枕詞。「しるく」は、その通りに。「ここだくも」は、これほど甚だしく。4020の「信濃の浜」は、所在未詳。4018で妻を呼んで鳴く鶴を詠み、そこから奈良にいる妻の大嬢を思って4019、4020の歌を詠んだものとみえます。
天平18年(746年)
7月 国守として越中に赴任
8月 国守の館で歓迎の宴
9月 弟・書持の訃報に接し哀傷歌を作る
12月 この頃から病に臥す
天平19年(747年)
2月 越中掾の大伴池主と歌の贈答
3月 月半ばまでに回復か
3月 妻への恋情歌を作る
4月 3~4月にかけて「越中三賦」を作る
5月 このころ税帳使として入京
5月以降、池主が越前国の掾に転任
8月 このころ越中に戻る
8月 このころ飼っていた自慢の鷹が逃げる
天平20年(748年)
2月 翌月にかけて出挙のため越中国内を巡行
3月 橘諸兄の使者として田辺福麻呂が来訪
4月? 入京する僧・清見を送別する宴
10月 このころ掾の久米広縄が朝集使として入京
天平勝宝1年(749年)
3月 越前の池主と書簡を贈答
4月 従五位上に昇叙される
5月 東大寺占墾地使の僧・平栄が来訪
5月 「陸奥国より黄金出せる詔書を賀す歌」を作る
6月 干ばつが続き、雨を祈る歌と、雨が降って喜ぶ歌を作る
7月 このころ大帳使として入京
冬に越中に戻るが、この時、妻の大嬢を越中に伴ったとみられる
11月 越前の池主と書簡を贈答
天平勝宝2年(750年)
1月 国庁で諸郡司らを饗応する宴
3月 「春苑桃李の歌」を作る
3月 出挙のため古江村に出張
3月 妻の大嬢が母の坂上郎女に贈る歌を代作
4月 布勢の湖を遊覧
6月 京の坂上郎女が越中の大嬢に歌を贈る
10月 河辺東人が来訪
12月「雪日作歌」を作る
天平勝宝3年(751年)
2月 正税帳使として入京する掾の久米広縄を送別する宴
7月 少納言に任じられる
8月 帰京のため越中を離れる。途中、越前の池主宅に寄り、京から帰還途上の広縄に会う