大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

士やも空しくあるべき・・・巻第6-978

訓読 >>>

士(をのこ)やも空(むな)しくあるべき万代(よろづよ)に語り継ぐべき名は立てずして

 

要旨 >>>

男子たるもの、このまま空しく世を去ってよいものか。いつのいつの代までも語り継がれるほど立派な名を立てないまま。

 

鑑賞 >>>

 左注に、「山上憶良が重病となった時、藤原朝臣八束(ふじわらのあそみやつか)が河辺朝臣東人(かわべのあそみあずまひと)を使者として容態を尋ねに来させた。憶良は返事を終え、しばらくして涙をぬぐい、悲しみ嘆いて、この歌を口ずさんだ」とある歌です。藤原八束は北家房前の子で、この時19歳。房前が大伴旅人と親交があったことは巻第5-810~820で知られますが、その子の八束が使者を立てて見舞ったことから、藤原北家と旅人・憶良との親密な関係が窺えます。あるいは、若い八束は、憶良を尊敬し師事していたのかもしれません。

 大宰府に赴任していた憶良は大伴旅人に後れて奈良に帰京し、その翌年に、74歳で没したと推定されています。従ってこの歌は天平5年(733年)の作、つまり彼の死の直前の歌であり、生涯最後となった一首です。それまでも死を恐れ、生に執着してきた憶良ですが、この辞世の歌ともいうべき歌においても、徹底した執念が感じられます。

 憶良が亡くなった時の官位は従五位下筑前守でしたから、貴族社会での地位は高いとは言えず、自身が思っていたような出世は果たせなかったのでしょう。さらに、漢文学の素養が深かった憶良にとって、中国の士大夫(したいふ)思想、つまり名を立てるこそが男子の理想像だと考えていたのかもしれません。歌にある「士」は、中国では志を持って徳行を積んだ人のことで、憶良のそうした高いプライドも窺えます。しかし、最終官位こそ高くはなかったものの、大歌人としての彼の名はその後今に至るまで語り継がれ、憶良を知らない人は少ないはずです。「語り継ぐべき名」は、十分すぎるほど立てています。