大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

言問はぬ木にもありとも我が背子が・・・巻第5-812

訓読 >>>

言(こと)問はぬ木にもありとも我が背子が手馴(たな)れの御琴(みこと)地(つち)に置かめやも

 

要旨 >>>

言葉を語らない木ではあっても、あなたが弾きなれた御琴を地に置くような粗末などいたしましょうか。

 

鑑賞 >>>

 天平元年(729年)10月7日、大宰府にいる大伴旅人から、都の中衛府(ちゅうえいふ)大将・藤原房前(ふじわらのふささき)のもとへ、手紙とともに一面の琴が贈られてきました(巻5-810~811)。この歌は、琴を受け取った房前から旅人への返事に添えられた歌です。

 旅人は、なぜ房前に琴を贈ったのでしょうか。そこで、この背景にあった不穏な政情にも触れなければなりません。この手紙と琴が贈られたのと同じ年の2月、当時の最高権力者だった長屋王(ながやのおおきみ)が、藤原氏の陰謀により自害させられました(長屋王の変)。その理由の一つは、藤原氏出身の光明子立后させることに長屋王が強力に反対していたことによります。この事件が起きる前に長屋王派の旅人が大宰府に追いやられたのも、藤原氏による陰謀の一環だったといわれます。

 旅人の贈り物が長屋王の事件の直後だったのを見ると、にわかに哀しく屈辱的な意味合いが浮かび上がってきます。大伴氏は本来、新興の藤原氏と比べても、古くから政治の中枢にいた名門の皇親派の豪族です。その大伴家のトップの立場としての、一族の命運を左右する政治的判断を迫られた旅人の苦肉の意思表明だったのではないでしょうか。君が愛用する琴になりたい、と。房前の返事の歌の意味も、「了解した」ということなのでしょう。

 ちなみに、この歌に添えられた房前の返事の内容は次のようなものでした。「お手紙をひざまずいて拝承、喜びでいっぱいです。琴をお贈り下さった御恩が、いやしい身の私にいかに厚いかを知りました。お逢いしたい気持ちが百倍です。白雲のはるか彼方から届いたお歌に謹んで唱和し、拙い歌を奏上します」。

 しかしながら、このやり取りに全く異なった見方をする向きもあります。旅人の文に「君子の傍らに置いていただきたい(君子の左琴を希ふ)」とあったように、琴は君子、つまり立派な人物が奏でる楽器とされていました。旅人が琴を贈ったのには「悪事をやめ、琴を弾くような君子になってほしい」との意が込められており、房前の返事の「御琴地に置かめやも」は、大切にして奏でようというのではなく、「地べたに放り出したりはしない」とにべもなく言っており、きわどい腹の探り合いではないかというのです。

 この翌年(730年)10月、大納言に昇任した旅人は、12月に帰京をはたすことができましたが、それから1年も経たない翌年7月に、旅人は67歳の生涯を終えました。また房前は天平9年(737年)4月に没し、政権の中枢にいた藤原氏の他の兄弟たちも相次いで病没しました。『続日本紀』にはこの年の春から秋にかけて疫病(天然痘)が大流行したことが記されています。それがきっかけとなって、社会は大きく変動していくことになります。