大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

この花のひとよのうちに・・・巻第8-1456~1457

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1456
この花の一(ひと)よのうちに百種(ももくさ)の言(こと)そ隠(こも)れる凡(おほ)ろかにすな

1457
この花の一(ひと)よのうちは百種(ももくさ)の言(こと)持ちかねて折(を)らえけらずや

 

要旨 >>>

〈1456〉この花の一枝には、数え切れないほど私の言葉がこもっている。だから、おろそかにしてはいけない。

〈1457〉この花の一枝は、あまりに多い言葉の重さに耐えかねて、折れてしまっているではありませんか。

 

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 1456は、「藤原朝臣広嗣(ふじはらのあそみひろつぐ)が桜花を娘子に贈る歌」とあり、藤原広嗣が娘子にちょっかいを出した歌とされ、1457は、それに答えた娘子の歌です。娘子が誰であるかは不明です。なお、「一よ」を「一枝」と解するのではなく、花びらの「一弁」の古語であるとする説があります。それに従えば、1456は「この花の一弁のうちには・・・」という意味になります。「百種の言そ隠れる」は、私が言いたい多くの言葉が籠っている。「凡ろかにすな」は、おろそかにしてはいけない、充分に心を汲め、の意。

 1457では、娘子が広嗣の贈歌を、一見、わが身に余ることだとして喜びながらも拒んでいる心を表しています。「折らえけらずや」とあるので、「一よ」はやはり「一枝」とするのが適当ではないでしょうか。娘子の身分は低かったとみられますが、才が利き、自信ありげに近づいてきた相手に対し、どことなく余裕をもって返している気配が感じられます。「一枝にそんなにたくさんの言葉を詰め込むから(心にもないことを多くおっしゃるから)、ごらんなさい、重みを支えかねて折れてしまったではありませんか」と。

 一方、詩人の大岡信は、娘子の歌は求愛を受け容れたものだと解しています。広嗣の「この花の一よの内に」という句が、娘子の返歌で「この花の一よの内は」と変えられているのは、「あなたのおっしゃった一枚の花びらにも比すべきこの私は(折れてしまいました)」という意味合いが込められているのではないか、というのです。とっさの機転で作られた返歌の可憐さが、巻八の編集者には好もしく思われたがゆえに収録されたのではないか、と。

 藤原広嗣の歌は、『万葉集』にこの1首のみです。広嗣は藤原式家の祖・宇合の長男で、藤原4兄弟が相次いで亡くなった後、従五位下に叙爵しましたが、朝廷内ではすでに反藤原勢力が台頭しており、大宰少弐大宰府の次官)に左遷されてしまいます。ただ、当時は帥(長官)が空席でしたから、実質的には帥の代行者としての赴任となり、これを左遷人事と見てよいかは疑問です。それより、広嗣が不満を抱いたのは、中央政界から意図的に遠ざけられたと感じたのでしょう。天平12年(740年)、広嗣は、聖武天皇の失政の原因は僧玄肪と吉備真備にあるとして、9月に筑紫にて挙兵(藤原広嗣の乱)、1万騎を率いて朝廷軍と戦いましたが捕えられ、11月に謀殺されました。

 奈良市にある新薬師寺の入口の左手に、広嗣を祭神とする鏡神社という小社が建っています。広嗣の歌に対して、「おほろかにすな」という命令口調から、尊大に過ぎるとの評価が多いなかにあって、この鏡神社の由緒書には、「一枝の桜に万斛(ばんこく)の思いを籠めて贈られた、若き日の広嗣公の歌。純真真率の情あふれるばかりで、万葉集中における優作である」と説かれています。

 

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世間を何に譬へむ・・・巻第3-351

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世間(よのなか)を何に譬(たと)へむ朝開(あさびら)き漕(こ)ぎ去(い)にし船の跡(あと)なきごとし

 

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世の中を何に譬えたらよかろう。船が夜明けに漕ぎ去ったあとには何の跡形もなくなってしまう。人生もそんなものだろうか。

 

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 沙弥満誓(さみまんぜい)が、大伴旅人の「酒を讃める歌」(巻第3-338~350)に呼応して詠んだ作ともいわれ、すぐその次に載せられている歌です。世間を仏者のいう無常という面から捉え、上2句が自問、3句以下が自答した形になっています。「朝開き」は、港に泊まっていた船が夜明けとともに漕ぎ出すこと。当時、大宰府にあった満誓は、自然と海に接することが多かったところから、実際に目にした風景を譬えたのでしょう。

 ちなみに旅人が詠んだのは、「生ける者つひにも死ぬるものにあればこの世なる間は楽しくあらな」(349)という歌です。

 作者の沙弥満誓(生没年未詳)は笠氏の出身で、俗名は麻呂。和銅年間に美濃守として活躍、その政績を賞せられ、また木曽道を開き、養老年間には按察使(あぜち)として尾張三河信濃3国を管するなどして順調に昇進を重ねました。その後、元明上皇の病に際して出家入道を請い許され、以後は満誓と号しました。「沙弥」は剃髪していても妻子のある在家の僧をいいます。養老7年(723年)に造筑紫観世音寺別当として大宰府に下向、大伴旅人らのいわゆる「筑紫歌壇」の一員となり、万葉集には7首の短歌を残しています。

 

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大宮の内まで聞こゆ・・・巻第3-238

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大宮(おほみや)の内(うち)まで聞こゆ網引(あびき)すと網子(あこ)ととのふる海人(あま)の呼び声

 

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大君のおられる御殿の中まで聞こえてくる、網を引こうとして、網子たちを指揮する漁師の威勢のいい掛け声が。

 

鑑賞 >>>

 題詞に「詔(みことのり)に応(こた)ふる歌」とあり、文武3年(699年)の持統上皇文武天皇の難波行幸の時の歌とされます。「大宮(皇居の尊称)」は大阪市中央区法円坂にあった難波離宮。ふだん大和の藤原京に住まわれる天皇には、海の光景がたいへん珍しく面白く思われ、供奉の長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)に歌を作れと仰せられたようです。

 「網引」は地引き網。「網子」は地引き網を引く人。「ととのうる」は網子たちの動作の調子を合わせること。「海人」はもともと部族の名であったのが、彼らが海で漁をするところから、転じて漁師の意味になったといいます。

 作者の長忌寸意吉麻呂(生没年未詳)は、柿本人麻呂高市黒人などと同じ時期に宮廷に仕えた下級官吏だったとされます。行幸の際の応詔歌、羇旅歌、また宴席などで会衆の要望にこたえた歌、数種のものを詠み込んだ歌、滑稽な歌など、いずれも短歌の計14首を残しています。

 この歌について斎藤茂吉は次のように言っています。「応詔の歌だから、調べも謹直であるが、ありのままを詠んでいる。しかしありのままを詠んでいるから、大和の山国から海浜に来た人々の、喜ばしく珍しい心持が自然にあらわれるので、強いて心持を出そうなどと意図しても、そう旨くいくものではない。また、特に帝徳を賛美したような口吻もなく、離宮に聞こえてくる海人等の声を主に歌っているのであるが、それでも立派に応詔歌になっている」

 

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隼人の薩摩の瀬戸を・・・巻第3-248

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隼人(はやひと)の薩摩(さつま)の瀬戸を雲居(くもゐ)なす遠くも我(わ)れは今日(けふ)見つるかも

 

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隼人の住む薩摩の瀬戸よ、その瀬戸を、空の彼方の雲のように遙か遠くだが、私は今この目に見納めた。

 

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 長田王(ながたのおおきみ)が筑紫に遣わされて薩摩に赴いたときの歌。用向きは、大宰府管内の巡察のためだったとみられ、この歌は、『万葉集』の歌のなかで、最も南の地で詠まれた歌とされます。船中にあって、海上遠く薩摩の瀬戸を眺望して詠んだ趣きで、当時の薩摩は朝廷の影響力がなかなか及ばず、問題の多い所だったといいます。「隼人」は、大隅・薩摩地方の精悍な部族。「薩摩の瀬戸」は鹿児島県阿久根市黒之浜と天草諸島の長島との間の海峡。

 作者の長田王は、聖武朝初期に、六人部王、門部王、佐為王、桜井王ら10余人と共に「風流侍従」とよばれた皇族の一人で、最終官位は散位正四位下。『万葉集』に6首の歌があります。

 

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をととしの先つ年より・・・巻第4-783~785

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783
をととしの先つ年より今年まで恋ふれどなぞも妹(いも)に逢ひかたき

784
うつつにはさらにもえ言はず夢(いめ)にだに妹(いも)が手本(たもと)を卷き寝(ぬ)とし見ば

785
我がやどの草の上白く置く露(つゆ)の身も惜しからず妹(いも)に逢はずあれば

 

要旨 >>>

〈783〉一昨年のそのまた前の年から今年に至るまで、ずっと恋し続けているのに、どうして貴女になかなか逢えないのでしょうか。

〈784〉現実には、そうしたいなどととても口に出して言えないけれど、せめて夢にでもあなたの腕を枕に寝られれば、それだけで十分です。

〈785〉たとえ庭の草の上に白く置いている露のようにはかなく消えようと、私の命は惜しくありません、もし貴女にお逢いできないのなら。

 

鑑賞 >>>

 大伴家持が娘子に贈った歌3首です。783の「先つ年」は前年、「をととしの先つ年」はすなわち一昨昨年の意。「なぞ」は、どうして。784の「うつつ」は現実。「更にも」は打消しを伴って、とても~ない。「手本」は肘から肩までの部分。「巻く」は枕にする。785の「やど」は庭。

 783について、長い間相手を思い続けていると、魂が感応して、相手も心を動かすという信仰があり、それを踏まえた歌のようです。また784は、夢は相手がこちらを思ってくれるゆえに見えると信じられていたことから、わが恋は実現できなくても、せめて貴女がこちらを思う心があれば、それだけでも嬉しいと言っています。

 

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我が屋戸に韓藍蒔き生ほし・・・巻第3-384

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我(わ)が屋戸(やど)に韓藍(からあゐ)蒔(ま)き生(お)ほし枯(か)れぬれど懲(こ)りずてまたも蒔かむとぞ思ふ

 

要旨 >>>

わが家の庭に、鶏頭花を種から育てたところ枯れてしまった。けれども懲りずにまた種を蒔こうと思う。

 

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 山部赤人の歌。「韓藍」は鶏冠草(とさかぐさ)ともいい、今の鶏頭(けいとう)です。夏から秋にかけて鶏のトサカに似た極彩色の花が咲きます。もとは熱帯アジア原産で、奈良時代に大陸から伝わり、珍重されました。赤人も、せっせとガーデニングに精出していたのか、あるいは、その鮮烈な花の色を女性に対する恋心に喩えているともいわれます。失恋を意味しているのでしょうか。

 

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遣新羅使人の歌(4)・・・巻第15-3635,3671

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3635
妹(いも)が家路(いへぢ)近くありせば見れど飽かぬ麻里布(まりふ)の浦を見せましものを

3671
ぬばたまの夜(よ)渡る月にあらませば家なる妹(いも)に逢ひて来(こ)ましを

 

要旨 >>>

〈3635〉もしも妻がいる家への道が近くにあったなら、見ても見飽きることのない麻里布の浦を見せてやりたいものを。

〈3671〉夜空を自由に行き来できる月であったなら。家にいる妻に逢って、またここに戻ってくるものを。

 

鑑賞 >>>

 新羅に向かう使者たちが、海路の途上で詠んだ歌です。3635の「麻里布の浦」は、山口県岩国市付近の海で、岩国市内には麻里布という地名があります。まだ海を知らない妻に見せてやりたいと言っています。3636は、筑前国(福岡県)の海浜で月を眺めながら、我が家が近くにあること、わが身を月になすことを空想しています。

 これらの歌の「・・・せば・・・まし(もの)を」の表現は万葉集にしばしば見られ、ありえないことを空想し、それを願望する心を表しています。3671の「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。