大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

防人の歌(28)・・・巻第20-4393~4394

訓読 >>>

4393
大君(おほきみ)の命(みこと)にされば父母(ちちはは)を斎瓮(いはひへ)と置きて参(ま)ゐ出(で)来(き)にしを

4394
大君(おほきみ)の命(みこと)畏(かしこ)み弓の共(みた)さ寝(ね)かわたらむ長けこの夜(よ)を

 

要旨 >>>

〈4393〉大君の恐れ多いご命令であるので、父上、母上を斎瓮とともに後に残して、家を出て来たことだ。

〈4394〉大君のご命令の恐れ多さに、弓を抱えたまま寝ることになるのだろうか。長いこの夜を。

 

鑑賞 >>>

 下総国の防人の歌。4393が結城郡雀部広島(さざきべのひろしま)、4394が相馬郡(そうまのこおり)の大伴部子羊(おおともべのこひつじ)。4393「されば」は「しあれば」の約。「斎瓮と置きて」は、斎瓮のように残して。「斎瓮」は、神に供える酒を入れる器。4394の「弓のみた」の「みた」は「むた」の方言で、弓とともに。「さ寝」の「さ」は、接頭語。「長け」は「長き」の方言。家で抱いていた妻と別れ、これからは弓を抱いて寝るのかと嘆いています。故郷を出発したのは2月、東山道を行く冬の夜はさぞ寒かったことでしょう。

 なお、防人歌のなかには、4394の歌のように「大君の命畏み・・・」と詠んだ歌が数首あります。一般の防人歌とは異質な歌であり、日本史学者の北山茂夫によれば、この共通の慣用句は「地方民自身の発想ではなく、中央官人の天皇観を端的に示すものとして、万葉中期には使われていた。それが、国司の論告に地方の豪族・農民のあいだにもちこまれ、兵士役を通じて受容されたのであろう」と述べています。

 さらに文学者の土橋寛は、このように言っています。「『大君の命令がおそれ多いので』どうなのかといえば、同じように妻子・父母と別れてきたのだと嘆くのである。だから、(たとえば4373の歌「今日よりは顧みなくて・・・」)の鉄壁のような兵士の姿は、それを裏返しに言ったまでで、じつは、なみなみならぬ郷愁に根ざしたものなのである」

 

 

 

東海道東山道旧国名比較

東海道
伊賀(三重)/伊勢(三重)/志摩(三重)/尾張(愛知)/三河(愛知)/遠江(静岡)/駿河(静岡)/伊豆(静岡・東京)/甲斐(山梨)/相模(神奈川)/武蔵(埼玉・東京・神奈川)/安房(千葉)/上総(千葉)/下総(千葉・茨城・埼玉・東京)/常陸(茨城)

東山道
近江(滋賀)/美濃(岐阜)/飛騨(岐阜)/信濃(長野)/上野(群馬)/下野(栃木)/岩代(福島)/磐城(福島・宮城)/陸前(宮城・岩手)/陸中(岩手)/羽前(山形)/羽後(秋田・山形)/陸奥(青森・秋田・岩手)

※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について