大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

老人の変若つといふ水ぞ・・・巻第6-1034

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いにしへゆ人の言ひ来(け)る老人(おいひと)の変若(を)つといふ水ぞ名に負(お)ふ瀧(たき)の瀬(せ)

 

要旨 >>>

これが古来言い伝えてきた、老人を若返らせるという水だ。いかにもその名にふさわしい滝の流れよ。

 

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 天平12年(740年)、聖武天皇の東国行幸に従駕した大伴東人(おおとものあずまひと)が、美濃国の多芸(たぎ)の行宮(かりみや)で作った歌。美濃国は、岐阜県南部。多芸の行宮は、所在未詳。「いにしへゆ」の「ゆ」は起点。「変若つ」は、若返る、元に立ち返る。「名に負ふ滝の瀬」は、養老の滝のこと。

 大伴東人は、天平宝字2年(758年)に淳仁天皇の即位に伴って従五位下となり、同5年武部(兵部)少輔、同7年少納言、さらに宝亀1年(770年)散位助、周防守などを経て同5年に弾正弼 に任じた人。

 万葉人は、若返ることを「変若(をつ)」と言い、満ち欠けを永遠に繰り返す月を見て、そこには若返りの水(変若水:をちみず)が存在すると信じていました。しかし、遠い月に行ってそれを得ることはできません。そこで、身近に手に入れることができる場所を各地に求め、その結果、「養老の滝」や「お水取り」など数々の聖水伝説が生まれました。

 

鳴き立てる馬・・・巻第13-3327~3328

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3327
百小竹(ももしの)の 三野(みの)の王(おほきみ) 西の厩(うまや) 立てて飼(か)ふ駒(こま) 東(ひむがし)の厩(うまや) 立てて飼ふ駒 草こそば 取りて飼ふと言へ 水こそば 汲(く)みて飼ふと言へ 何しかも 葦毛(あしげ)の馬の い鳴き立てつる

3328
衣手(ころもで)葦毛(あしげ)の馬のいなく声(こゑ)心(こころ)あれかも常(つね)ゆ異(け)に鳴く

 

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〈3327〉栄えておられた三野王が、西に馬屋を建てて飼う馬、東に馬屋を建てて飼う馬。草はどっさり取ってきて与えてあるというのに、水はたっぷり汲んできて与えてあるというのに、どういうわけで、葦毛の馬たちはこんなに鳴き立てるのか。

〈3328〉葦毛の馬のいななく声は、主人を悲しむ心があるかのように、いつもとは違う声で鳴いている。

 

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 三野王(みののおおきみ)が亡くなった時の歌。三野王は橘諸兄(たちばなのもろえ)の父で、672年の壬申の乱では天武側につき、その後天武天皇持統天皇に仕えました。3327の「百小竹の」は、たくさんの篠が茂る野の意で「三野」にかかる枕詞。3328の「衣手」は「葦毛」の枕言葉ながら、掛かり方未詳。「常ゆ異に」は、いつもと違って。

 馬たちは、屋敷内がふだんと違う雰囲気であるのを察知し、可愛がってくれている主人が姿を見せないことに異変を感じて鳴き立てたのでしょうか。万葉学者の伊藤博はこの歌を、「簡素な言葉づかいと古樸な調べの中に真情が溢れる」と評しています。

 

旅にし居れば刈り薦の・・・巻第12-3176

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草枕(くさまくら)旅にし居(を)れば刈り薦(こも)の乱れて妹(いも)に恋ひぬ日はなし

 

要旨 >>>

旅にあって寝床のために刈り取った薦が乱れるように、私の心は乱れて妻を恋しく思わない日はない。

 

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 「羈旅発思」(旅にあって思いを発した歌)の作者未詳歌です。「草枕」「刈り薦の」は、それぞれ「旅」「乱れて」の枕詞。「刈り薦」は刈り取った薦のこと。「薦」(マコモ)は、全国いたるところで見られるイネ科の多年草で、夏に刈り取って筵(むしろ)の材料にしました。

 『万葉集』を愛した鎌倉幕府3代将軍の源実朝は、この歌を本歌取りし、次の歌を詠んでいます。

草枕 旅にしあれば かりごもの 思ひ乱れて 寐(い)こそ寝(ね)られね」

 

神功皇后と鎮懐石・・・巻第5-813~814

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813
かけまくは あやに畏(かしこ)し 足日女(たらしひめ) 神の命(みこと) 韓国(からくに)を 向(む)け平(たひ)らげて 御心(みこころ)を 鎮(しづ)めたまふと い取らして 斎(いは)ひたまひし 真玉(またま)なす 二つの石を 世の人に 示したまひて 万代(よろづよ)に 言ひ継ぐがねと 海(わた)の底 沖(おき)つ深江(ふかえ)の うなかみの 子負(こふ)の原に 御手(みて)づから 置かしたまひて 神(かむ)ながら 神(かむ)さびいます 奇(く)し御魂(みたま) 今の現(をつつ)に 尊(たふと)きろかむ

814
天地(あめつち)のともに久しく言ひ継(つ)げとこの奇(く)し御魂(みたま)敷(し)かしけらしも

 

要旨 >>>

〈813〉口に出すのも恐れ多いが、神功皇后が韓の国を平らげるにあたり、御心をお鎮めになろうと、御手にお取りになり祀られた、玉のような二つの石、その尊い石を世の人々にお示しになって、霊験のあらたかさを後世に語り継ぐようにと、深江の里の海のほとりの子負の原に御自ら置かれて以来、その二つの石は神そのものとして神々しく鎮まっておいでになる。この霊妙な御霊の石は、今の世にもまことに尊い

〈814〉天地とともに末永く語り継げとて、この霊妙な霊石を、ここにお置きになったものらしい。

 

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 前文に次のような記載があります。――筑前の国、怡土郡(いとぐん)深江村(ふかえむら)子負(こう)の原の、海に臨む丘の上に二つの石がある。大きいのは高さ一尺二寸六分、周囲一尺八寸六分、重さ十八斤五両。小さいのは高さ一尺一寸、周囲一尺八寸、重さ十六斤十両。どちらも楕円形で、形は鶏卵のようだ。その美しく立派なことは言いようもない。世にいう「径尺の璧」とはまさしくこれをいうのであろう。(或いは、この二つの石は、もとは肥前の国彼杵郡(そのきぐん)平敷(ひらしき)にあった石で、占いをするために取り寄せたものだという) 深江の駅家(うまや)から二十里ほどの道のほとりにある。そのため、公私を問わず往来に馬を下りて拝まない人はいない。古老が言い伝えるには、「むかし神功皇后(じんぐうこうごう)が新羅(しらぎ)を征伐なさったときに、この二つの石を御袖の中に挟んで御心をお鎮めになった。(本当は御裳の中に入れた) そういうわけで旅する人はこの石を拝礼するのだ」という。そこで作った歌。――

 「筑前の国怡土郡深江村」は、福岡県糸島市二丈深江。鎮懐石八幡宮には、神功皇后にまつわる伝説の「鎮懐石(ちんかいせき)」が祀られています。

 813の「かけまく」は口に出して言うこと。「あやに」は甚だ。「足日女」は神功皇后。「神の命」は神として尊んでの称。「韓国」は新羅。「向け平らげて」は平定して。「い取らして」の「い」は接頭語。お取りになって。「斎ひたまひし」はお祀りになった。「真玉なす」の「真」は美称。玉のような。「言ひ継ぐがね」の「がね」は願望。「海の底」は「沖」の枕詞。「うなかみ」は海のほとり。「神ながら神さびいます」は、神として神々しくいらせられる。「尊きろかむ」の「ろ」は接尾語。「かむ」は「かも」と同じ。814の「敷かし」はお置きになる。「けらし」は「けるらし」の略で、過去の強い推量。

 なお、左注に、このことを伝承したのは那珂郡(なかぐん)伊知郷(いちのさと)蓑島(みのしま)の人、建部牛麻呂(たけべのうしまろ)なり、とあり、また、本文に作者名はないものの、目録に「山上憶良が鎮懐石を詠んだ歌」とあります。

 

神功皇后について >>>

 神功皇后は『日本書紀』などにみえる仲哀天皇の皇后で、名は気長足姫(おきながたらしひめ)といいます。神と交感する能力を持つ巫女的な女性で、夫の仲哀天皇が神の託宣を信じず祟りにあって頓死したため、皇后は託宣に従い、自ら先頭に立って新羅を攻めます。このとき大小の魚が寄り集まって、船の進行を助けたといいます。新羅の王は皇后の軍団の勢いに圧倒されて戦わずして降り、高句麗百済もこれに倣いました。

 この軍旅に際し、身籠っていた皇后は臨月を迎えていましたが、鎮懐石(ちんかいせき)という石をお腹に当てて出産を遅らせ、筑紫へ凱旋してから、現在の宇美八幡宮(福岡県宇美町)で御子(のちの応神天皇)を生みます。また、このときの鎮めの石を祀る鎮懐石八幡宮が、福岡県糸島市にあります。上の山上憶良の歌には、石の具体的な寸法と共に、人々が盛んにお参りしていた様子が詠われています。

 皇后は出産ののち、反乱の企てなども粉砕し、大和で御子を皇太子に立てて後見に当たり、応神が即位するまで69年間も政治を執っていたといいます。記紀の記載では、皇后は皇位に就かなかったことになっていますが、天皇に匹敵する存在であり、『日本書紀』でも天皇に準じた扱いをしています。『日本書紀』にはさらに多くの日朝関係の記事が記され、なかには史実と考えられるものもあり、また4か所にわたって『魏志(ぎし)』や『晋書(しんじょ)起居注』が引用され、編者が神功皇后を倭の女王(卑弥呼)に比定していたことが窺えます。

 

琴取れば嘆き先立つ・・・巻第7-1129

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琴(こと)取れば嘆き先立つけだしくも琴の下樋(したひ)に妻や隠(こも)れる

 

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琴を弾こうと手にすると、先ず嘆きが先に立つ。ひょっとして亡き妻が下樋の中にこもっているのであろうか。

 

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 題詞に「倭琴(やまとごと)を詠む」とあり、男やもめの歌とみられます。「けだしくも」は、ひょっとしたら。「下樋」は、琴の表板と裏板の間の空洞の部分。古代、物が空洞になっているところには霊魂がこもると信じられており、作者は、亡き妻が愛用していた琴を弾こうとする時に、それを感じたようです。

 万葉学者の伊藤博は「『嘆き』は単に悲嘆、哀傷の意ではあるまい。その心情をもこめつつ、音色にいたく引かれてしまう切実な感動をいうのであろう。格別に気高い音色をだす琴なのだが、妻との思い出がこもるので弾く前にいっそう感極まってしまうという心。つまりは、きわめて複雑微妙な形で琴をほめている」と説明しています。また、また、琴を持つのは上流階級の人に限られており、この歌の作者を、妻を亡くした大伴旅人と推定する見方もあるようです。

 「琴取れば嘆き先立つ」の語句は、後の歌人たちに好まれ、さまざまな変化が加えられながら、常套的な文学表現として受け継がれていきました。

 

白玉は緒絶えしにきと・・・巻第16-3814~3815

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3814
白玉(しらたま)は緒絶(をだ)えしにきと聞きしゆゑにその緒(を)また貫(ぬ)き我(わ)が玉にせむ

3815
白玉(しらたま)の緒絶(をだ)えはまこと然(しか)れどもその緒(を)また貫(ぬ)き人持ち去(い)にけり

 

要旨 >>>

〈3814〉あなたの大切な真珠の緒が切れてしまったと聞いたので、私が再び緒を通して、私の宝にいたしましょう。

〈3815〉真珠の紐が切れたというのは本当ですが、別の人が再び緒を通して、持っておいでになりました。

 

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 左注に「この歌には言い伝えがある」として、次のような説明があります。あるとき娘子がいた。夫に棄てられ、あらためて他家の男に嫁いだ。そのとき別のある男がいて、娘子が再婚したのを知らずにこの歌(3814)を贈り届け、女の父母に結婚を申し込んだ。女の両親は、男がまだ詳しい事情を聞いていないのだなと思って、この歌(3815)を作って送り返し、女が再婚したことを明らかにしたという。

 3814の「白玉」は真珠で、娘子の譬え。「緒絶え」は、真珠に通していた緒が切れることで、夫婦関係が切れた譬え。「我が玉にせむ」は、わが妻にしようの譬喩。3815の「人」は、他の男。

 窪田空穂は、3814について「求婚の歌としては情熱のない事務的な言い方であるが、これはその親に申込んだものであり、親しい間柄などの関係からであろう。言い方のやすらかで、洗練されているのは、双方身分ある者だったからであろう」、また3815について、「実用性の歌で、それにふさわしく、気分を現わさず、平坦に、行き届いた言い方をしている」と述べています。

 

志賀の海人の歌(2)・・・巻第16-3865~3869

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3865
荒雄(あらを)らは妻子(めこ)が業(なり)をば思はずろ年(とし)の八年(やとせ)を待てど来(き)まさず

3866
沖つ鳥(とり)鴨(かも)とふ船の帰り来(こ)ば也良(やら)の崎守(さきもり)早く告げこそ

3867
沖つ鳥(とり)鴨(かも)とふ船は也良(やら)の崎 廻(た)みて漕(こ)ぎ来(く)と聞こえ来(こ)ぬかも

3868
沖行くや赤ら小舟(をぶね)につと遣(や)らばけだし人見て開き見むかも

3869
大船(おほぶね)に小舟(をぶね)引き添へ潜(かづ)くとも志賀(しか)の荒雄に潜き逢(あ)はめやも

 

要旨 >>>

〈3865〉荒男は、妻子の暮らし向きを思わなかったのだろうか。もう八年も待っているのに、一向にお帰りにならない。

〈3866〉沖に棲む鳥、その鴨という名の船が帰ってきたら、也良の崎の見張りの人よ、一刻も早く知らせておくれ。
 
〈3867〉沖に棲む鳥の鴨という名の船が、也良の崎を漕ぎめぐって帰ってきたと、噂でもいいから聞こえてほしい、けれど少しも聞こえてこない。
 
〈3868〉沖を漕いで行くあの赤い小舟に、土産物を送り届けておいたら、ひょっとしてあの人が気づいて開けて見てくれるだろうか。
 
〈3869〉大船に小舟を引き連れて、海中に潜ってみても、今となっては志賀の荒男に出逢うことなどあろうか。

 

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 「筑前(つくしのみちのくち)の国の志賀(しか)の海人(あま)の歌」10首のうちの後半の5首です。「志賀」は福岡市東区志賀島。今は陸続きになっています。なお、左注にはこれらの歌についての説明があります。

 ―― 神亀(じんき)年間に、大宰府が、筑前国宗像郡の民、宗形部津麻呂(むなかたべのつまろ)を指名して、対馬へ食料を送る船の船頭にあてた。指名された津麻呂は、滓屋郡志賀村に住む漁師の荒雄を訪ね、「ちょっとした頼み事があるのだが、聞いてもらえまいか」と相談をもちかけた。荒雄が答えて言うには、「私はあなたと郡は別だが、同じ船に長く乗ってきた。だから、あなたへの思いは兄弟以上であり、あなたのために死ぬことがあって拒むことなどあろうか」と答えた。津麻呂は、「大宰府の役人が私を対馬に食料を送る船の船頭に指名してきた。しかし、年を取って衰えた体では海路に耐えられそうにない。それでこうして参上した。なんとか交代していただけないだろうか」と言った。そこで荒雄は承諾して、その仕事を引き受けることになった。肥前国松浦県の美祢良久の岬から船出し、まっすぐ対馬をめざして海を渡っていると、にわかに空が暗くなり、暴風雨となって、とうとう追い風を失い海中に沈んでしまった。そこで妻子は、子牛が母を慕うような情に耐えかねて、この歌を作ったという。あるいは、筑前国守の山上憶良が妻子の悲しみに我が悲しみとして同情し、心中の思いを述べてこの歌を作ったともいう。――

 3865の「思はずろ」の「ろ」は間投助詞。3866・3867の「沖つ鳥」は沖に棲む鳥で「鴨」の枕詞。「鴨」は、荒雄が乗っていた船の名。「也良」は、能古島の北端の岬とされます。「崎守」は、監視のために置かれた防備兵。「告げこそ」の「こそ」は願望。「廻みて」は、巡って、廻って。3868の「赤ら小舟」は、船体を赤く塗った舟。「つと」は、食糧、土産物。「けだし」は、ひょっとすると。3869の「潜く」は、水中に入って捜索する。「逢はめやも」の「やも」は反語。最後は荒雄の死を認め、絶望の歌で全体を終えています。