大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

月草のうつろふ心・・・巻第12-3058~3059

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3058
うちひさす宮にはあれど月草(つきくさ)のうつろふ心(こころ)我(わ)が思はなくに

3059
百(もも)に千(ち)に人は言ふとも月草(つきくさ)のうつろふ心 我(わ)れ持ためやも

 

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〈3058〉華やかな宮仕えをしていますが、色のさめやすい露草のような移り気な心を、私は持っておりません。

〈3059〉あれこれと人は噂をまき散らしますが、露草のように移り気な心など、決して持つものですか。

 

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 「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」2首。いずれも女の歌です。

 3058は、宮中に女官として仕えている女が、夫に対して貞節を誓っています。多くの男性がいる宮中に女官が立ち混じっていると、色々と男女の問題が生じていたようです。「うちひさす」「月草の」は、それぞれ「宮」「うつろふ」の枕詞。「月草」は露草(ツユクサ)の古名。露草で染めた布はすぐに色褪せるため、移ろう恋心に例えられました。

 3059も、妻である女が、その夫に貞節を誓っています。この時代の夫婦は別居していましたから、夫のいる女とは知らずに、言い寄ってくる男は少なくなかったとみえます。「百に千に」は、あれこれと、なんだかんだと。

 

梓弓末は知らねど・・・巻第12-3149~3150

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3149
梓弓(あづさゆみ)末(すゑ)は知らねど愛(うるは)しみ君にたぐひて山道(やまぢ)越え来(き)ぬ

3150
霞(かすみ)立つ春の長日(ながひ)を奥処(おくか)なく知らぬ山道(やまぢ)を恋ひつつか来(こ)む

 

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〈3149〉行く末がどうなるのか分かりませんが、いとしいあまり、あなたに寄り添って山道を越えてやって来ました。

〈3150〉霞が立つ春の長い一日を、あてどもなく勝手も分からない山道を、あの人を恋いつつ歩き続けるのでしょうか。

 

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 「羈旅発思(旅にあって思いを発した歌)」2首。いずれも女の歌です。3149の「梓弓」は「末」の枕詞。「末は知らねど」は、将来どうなるか分からないがの意。任地へ赴く夫に連れられて旅に出た、結婚後間もない女の歌とみられます。一抹の不安にかられながらも、一切を夫に任せている気持ちが窺えます。

 3150の「霞立つ」は「春」の枕詞。「奥処なく」は、あてどもなく。遠い任地にいる夫のもとへ行こうとしている妻の歌でしょうか。窪田空穂は「純気分の歌であるが、それをとおして情景の浮かび出る歌である。『霞立つ』という枕詞が叙景となり、『奥処なく』の抒情と溶け合う趣が、一首全体にある。奈良朝の教養ある人の歌である」と評しています。

 

生きてあらば見まくも知らず・・・巻第4-581~584

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581
生きてあらば見まくも知らず何(なに)しかも死なむよ妹(いも)と夢に見えつる

582
ますらをもかく恋ひけるをたわやめの恋ふる心にたぐひあらめやも

583
月草(つきくさ)のうつろひやすく思へかも我(あ)が思ふ人の言(こと)も告げ来(こ)ぬ

584
春日山(かすがやま)朝立つ雲の居(ゐ)ぬ日なく見まくの欲しき君にもあるかも

 

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〈581〉生きてさえいればお逢いするかも知れないのに、どうして「死んで逢おう」などと言って夢に出てこられるのですか。

〈582〉立派な男子のあなたも、そのように恋するのですね。でも、弱い女の私が恋する苦しさに立ち並ぶことができましょうか、できはしません。

〈583〉私を露草のように移り気な女とお思いになっているからでしょうか。あなたから何の便りも届かないのは。

〈584〉春日山に朝立つ雲は、かからない日はなく、その雲のようにいつも見ていたいあなたです。

 

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 題詞に「大伴坂上家(おおとものさかのうえのいえ)の大嬢(おおいらつめ)が、大伴宿祢家持に報(こた)へ贈った歌」とあります。大伴坂上大嬢は家持の従妹にあたり、のち家持の正妻になった女性で、妹に坂上二嬢がいます。また、大嬢を「おほひめ」「おほをとめ」などと訓む説もあります。家持が贈った歌は載っていませんが、ここの歌は天平4年(732年)頃のもので、大嬢の歌としては初出。大嬢は10歳くらい(家持は15歳)ですので、母の坂上郎女の代作とみられています。

 581の「何しかも」は、どうして。582の「ますらを」は、立派な男子。「たわやめ」は、か弱い女性。「たぐひあらめやも」の「やも」は反語で、立ち並ぶことができようか、できはしないの意。583の「月草の」は「うつろふ」の枕詞。月草は今の露草(つゆくさ)で、その花で布を染めていましたが、すぐに色褪せてしまうことから、移ろいやすく、はかない恋心の譬えに使われています。584の上2句は「居ぬ日なく」を導く序詞。「春日山」は、奈良市の東部にある春日山御蓋山若草山などの山の総称。

 

妹が名は千代に流れむ・・・巻第3-228~229

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228
妹(いも)が名は千代(ちよ)に流れむ姫島(ひめしま)の小松(こまつ)が末(うれ)に蘿(こけ)生(む)すまでに

229
難波潟(なにはがた)潮干(しほひ)なありそね沈みにし妹(いも)が姿を見まく苦しも

 

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〈228〉その娘の名は末永く語り継がれるだろう。姫島の松の梢が大きくなってこけむす、いついつまでも。

〈229〉難波潟よ、潮を引かないでほしい。ここに沈んだ彼女の姿を見るのは辛いから。

 

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 題詞に「和銅4年(711年)、河辺宮人(かはへのみやひと)、姫島の松原にして娘子の屍を見て悲嘆(かな)しびて作る歌2首」とある歌で、投身して死んだ若い女の霊を慰めています。歌の内容からは、屍を直接目にしているのではなく、そうした話があるのを聞いて詠んだ歌とみられます。「妹が名」の「妹」は、男から女を親しんで呼ぶ語ですが、ここでは死者であるため懇ろに呼んでいるもの。「名」は、土地の人には知られており、作者も聞き知っていたようです。「姫島」は、淀川河口付近にあった島。228の「末」は、梢。「蘿」は、松のこけとも、サルオガセとも。229の「潮干なありそね」の「な~そ」は禁止。「見まく苦しも」は、見ることは辛い。

 河辺宮人は個人名ではなく、飛鳥の河辺宮の官人とされます。朝廷の公務での旅路で詠んだ歌でしょうか。この時代、死は穢れとされ、死者のいる場所にはその怨念が居ついていると信じられていました。そのため、このように旅の途上で行き倒れの死者などに出会った時、あるいはその言い伝えがある土地を通った時には、我が身に災いが振り掛からないよう、その死者の魂を慰める歌を奉げてから通るならいがありました。ここでは「名は千代に流れむ」という言葉が慰めになっていますが、作者は、若い女の自殺といういたましさから、死の穢れというようなことを飛び超え、甚だ強い感傷を抱いています。

 

嬥歌(かがい)の会の歌・・・巻第9-1759~1760

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1759
鷲(わし)の住む 筑波の山の 裳羽服津(もはきつ)の その津の上に 率(あども)ひて 娘子(をとめ)壮士(をとこ)の 行き集(つど)ひ かがふ嬥歌(かがひ)に 人妻に 我(わ)も交(まじ)はらむ 我(わ)が妻に 人も言(こと)問へ この山を うしはく神の 昔より 禁(いさ)めぬわざぞ 今日(けふ)のみは めぐしもな見そ 事も咎(とが)むな

1760
男(を)の神に雲立ちのぼり時雨(しぐれ)ふり濡(ぬ)れ通るともわれ帰らめや

 

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〈1759〉鷲の巣くう筑波山にある裳羽服津のほとりに、声をかけ合って集まった若い男女が手を取り合って歌い踊る場所がある。人妻に私も交わろう、私の妻にも声をかけてやってくれ。これは、この山の神が遠い昔からお許しになっている神事である。だから今日だけは、あわれに思わないでくれ、咎め立てをしないでくれ。

〈1760〉男の神山に雲が立ちのぼり、時雨にずぶ濡れになったとしても、私は帰りなどしないよ。

 

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 筑波の嶺に登って嬥歌(かがい)の会をした日に、高橋虫麻呂が作った歌。嬥歌会(歌垣のことをいう東国の語)は、もともとは豊作を祈る行事で、春秋の決まった日に男女が集まり、歌舞や飲食に興じた後、性の解放、すなわち乱婚が許されました。昔の日本人は性に関してはかなり奔放で、独身者ばかりではなく、夫婦で嬥歌(歌垣)に参加して楽しんでいたようです。筑波山頂に男の神山(男体山)と女の神山(女体山)があり、男体山と女体山がつながる御幸が原が歌垣の場所だったようです。ただしこの歌自体は虫麻呂の実体験というより、当地の習俗の伝承を詠んだにすぎないとされます。

 1759の「裳羽服津」は所在不明。「津」は、一般に海岸や水辺の港のある所を指します。「率ひて」は、誘い合って。「かがふ」は、男女が唱和する、または性的関係を結ぶ。「交はらむ」は、性交しよう。「うしはく」は、土地を治める意。「めぐし」の意は、かわいい、痛々しい、監視するなど諸説あります。「な見そ」の「な~そ」は禁止。

 『常陸風土記』にも筑波山の嬥歌会のことが書かれており、それによると、足柄山以東の諸国から男女が集まり、徒歩の者だけでなく騎馬の者もいたとありますから、遠方からも大層な人数が、胸をわくわくさせて集まる一大行事だったことが窺えます。また、土地の諺も載っており、「筑波峰の会に娉(つまどひ)の財(たから)を得ざる者は、児女(むすめ)と為(せ)ず」、つまり「筑波峰の歌垣で、男から妻問いのしるしの財物を得ずに帰ってくるような娘は、娘として扱わない」というのですから驚きます。

 

立ちしなふ君が姿を忘れずは・・・巻第20-4440~4441

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4440
足柄(あしがら)の八重山(やへやま)越えていましなば誰(た)れをか君と見つつ偲(しの)はむ

4441
立ちしなふ君が姿を忘れずは世の限りにや恋ひわたりなむ

 

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〈4440〉足柄の八重に重なる山々を越えて行ってしまわれたら、誰をあなた様と見てお慕いしたらよいのでしょうか。

〈4441〉しなやかなあなた様のお姿を忘れない限り、きっと命果てるまでもお慕いし続けることでしょう。

 

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 上総の国(千葉県南部)の大掾(だいじょう)大原真人今城(おおはらのまひといまき)が、朝集使として京に向かうことになった時に、地元の郡司の妻女らが贈った歌。「大掾」は、国司の上席三等官。「朝集使」は、国庁から年4回、その国の貢物を奉じて中央政府に行く使者。大原真人今城は、敏達天皇の後裔で、はじめ今城王、後に臣籍降下して大原真人姓になった人。「郡司」は、その地の豪族が任ぜられる職。
 
 ここの歌は、餞宴の席に侍していた郡司の妻が、盃を勧める際に詠んだ歌とみられます。4440の「足柄の八重山」は、神奈川県と静岡県の県境にある足柄・箱根山群の山で、東国と西国の境であるとも考えられていた難所です。「いましなば」の「います」は「行く」の尊敬語。「誰れをか君と見つつ」は、あなたに似る美貌の人は、他にはないの意。4441の「立ちしなふ」は、しなやかに立つ。京風の美として言っています。下官の妻が、上官の美貌をたたえるということは、宴歌にせよ稀有で、他に例のないもののようです。また、2首とも、あたかも恋人を送り出すかのような歌でもあり、すでに額田王の蒲生野唱和歌があったように、酒宴ではこうした際どい歌も許されたと見えます。

 

 

当ブログ制作にあたっての参考文献

『NHK100分de名著ブックス万葉集』~佐佐木幸綱/NHK出版
大伴家持』~藤井一二/中公新書
『古代史で楽しむ万葉集』~中西進/KADOKAWA
『誤読された万葉集』~古橋信孝/新潮社
『新版 万葉集(一~四)』~伊藤博/KADOKAWA
田辺聖子の万葉散歩』~田辺聖子/中央公論新社
超訳 万葉集』~植田裕子/三交社
『日本の古典を読む 万葉集』~小島憲之/小学館
『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』~小名木善行/徳間書店
『万葉語誌』~多田一臣/筑摩書房
『万葉秀歌』~斎藤茂吉/岩波書店
『万葉秀歌鑑賞』~山本憲吉/飯塚書店
万葉集講義』~上野誠/中央公論新社
万葉集と日本の夜明け』~半藤一利/PHP研究所
萬葉集に歴史を読む』~森浩一/筑摩書房
万葉集のこころ 日本語のこころ』~渡部昇一/ワック
万葉集の詩性』~中西進/KADOKAWA
万葉集評釈』~窪田空穂/東京堂出版
『万葉樵話』~多田一臣/筑摩書房
『万葉の旅人』~清原和義/学生社
『万葉ポピュリズムを斬る』~品田悦一/講談社
『私の万葉集(一~五)』~大岡信/講談社

 

我妹子は釧にあらなむ・・・巻第9-1766

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我妹子(わぎもこ)は釧(くしろ)にあらなむ左手の我(わ)が奥(おく)の手に巻きて去(い)なましを

 

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あなたが釧であったらいいのに。そしたら、左手の私の大事な奥の手に巻いて旅立とうものを。

 

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 振田向宿祢(ふるのたむけすくね:伝未詳)が、筑紫の官に任ぜられて下った時の歌。「釧」は、腕輪で、手首やひじのあたりに巻いた飾り。「なむ」は、願望の助詞。「奥の手」は、左手を右手よりも尊んでの称とされ、左手は右手よりも不浄に触れることが少ないとしての上代の信仰によるとみられています。この風習は、いまも欧州に残っているといいます。「巻きて去なましを」は、巻いて持って行こうものを。
 
 愛する人との別れに際し、その人を身につける品にして持って行きたいというのは類想が多くありますが、釧(腕輪)にしたいと歌っているのは珍しいものです。