大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

我が恋ひ死なば誰が名ならむも・・・巻第12-3105~3106

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3105
人目(ひとめ)多み直(ただ)に逢はずてけだしくも我(あ)が恋ひ死なば誰(た)が名ならむも

3106
相(あひ)見まく欲しきがためは君よりも我(わ)れぞまさりていふかしみする

 

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〈3105〉人目が多いからといってじかに逢ってくれないで、もしも私が恋死にでもしたら、いったい誰の評判になるだろうか、だれでもない、あなたの評判になるだろうよ。

〈3106〉お逢いしたいと願う気持ちは、あなたより私の方がまさっているのに、どうしておいでにならないのか、変に思っています。

 

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 3105は、逢いに行きたいのに逢えないのは、あなたのせいだと威嚇するふりをして言い訳する男の歌。「けだしくも」は、もしかして、万一。「誰が名ならむも」は、誰の評判になろうか、誰でもないあなたの評判になろう。3106は、それはおかしいと女がやり返した歌。「いふかし」は、心が晴れない、不審に思う。

 

聞かずして黙もあらましを・・・巻第13-3303~3304

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3303
里人(さとびと)の 我(あ)れに告(つ)ぐらく 汝(な)が恋ふる 愛(うるは)し夫(づま)は 黄葉(もみちば)の 散りまがひたる 神奈備(かむなび)の この山辺(やまへ)から[或る本に云く、その山辺] ぬばたまの 黒馬(くろま)に乗りて 川の瀬を 七瀬(ななせ)渡りて うらぶれて 夫(つま)は逢ひきと 人そ告げつる

3304
聞かずして黙(もだ)もあらましを何(なに)しかも君が直香(ただか)を人の告げつる

 

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〈3303〉里人が私にこう告げてくれた。あなたが恋うている愛する夫は、黄葉が散り乱れる、神奈備の山裾を通って、黒馬に乗り、川の瀬を幾度も渡り、しょんぼりとした姿で出逢ったと、その人は私に言った。

〈3304〉聞かせないで黙っていてほしかった。どうしてあの人の様子を、里人は知らせたのだろう。

 

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 この歌を挽歌とみるものもありますが、編集者はそうは認めず、相聞の中に加えています。3303の「神奈備」は、神が降りる山や森。「ぬばたまの」は「黒」の枕詞。「七瀬」は、多くの瀬。「うらぶれて」は、しょんぼりと。3304の「黙」は、黙っていること。「直香」は、ようす。

 窪田空穂は、この歌を挽歌と見るとすべて自然に感じられるとして、次のように述べています。「上代の夫妻は別居して暮らしたのと、その間を秘密にしていたなどの関係から、そのいずれかが死んだ場合にも、ただちに通知しなかったことは、挽歌に多く見えていることで、この歌もそれである。また、死者を生者のごとくいっているのは、死者を怖れる心から尊んですることであって、これも特別のことではない」

 

万葉集』の三大部立て

雑歌(ぞうか)
 公的な歌。宮廷の儀式や行幸、宴会などの公の場で詠まれた歌。相聞歌、挽歌以外の歌の総称でもある。

相聞歌(そうもんか)
 男女の恋愛を中心とした私的な歌で、万葉集の歌の中でもっとも多い。男女間以外に、友人、肉親、兄弟姉妹、親族間の歌もある。

挽歌(ばんか)
 死を悼む歌や死者を追慕する歌など、人の死にかかわる歌。挽歌はもともと中国の葬送時に、棺を挽く者が者が謡った歌のこと。

 『万葉集』に収められている約4500首の歌の内訳は、雑歌が2532首、相聞歌が1750首、挽歌が218首となっています。

み雪降る吉野の岳に居る雲の・・・巻第13-3293~3294

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3293
み吉野の 御金(みかね)の岳(たけ)に 間(ま)なくそ 雨は降るといふ 時(とき)じくそ 雪は降るといふ その雨の 間(ま)なきがごとく その雪の 時じきがごと 間(ま)も落ちず 我(あ)れはそ恋ふる 妹(いも)が正香(ただか)に

3294
み雪降る吉野の岳(たけ)に居(ゐ)る雲の外(よそ)に見し子に恋ひわたるかも

 

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〈3293〉み吉野の御金の岳に絶え間なく雨は降るという、 時を定めず雪は降るという。その雨が絶え間ないように、その雪が時を定めないように、いささかの間を置くこともなく、私は恋続けるだろう、いとしいあの子の姿に。

〈3294〉雪が降りしきる吉野の岳にかかっている雲のように、よそながら見たあの子に。私はひたすら恋い焦がれ続けている。

 

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 外ながら見ている娘への恋心をうたった歌。3293の「御金の岳」は、吉野町金峰山(きんぷせん)で、山頂近くに金峰神社があります。間断なく雨や雪に接していることが聖なる山とされ、後には山林修行の聖地とされました。「時じく」は、時を定めず、時節に関係なく。「落ちず」は、残らず、もらさず。「正香」は、それしかないそのものから漂い出る霊力。じかに感じられる雰囲気。3294の上3句は「外に見し」を導く序詞。

 なお、3293は、壬申の乱を前にした大海人皇子天武天皇)が、吉野入りをした時の苦難の道行きをうたったとされる歌(巻第1-25)によく似ています。

 

降る雪の白髪までに・・・巻第17-3922

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降る雪の白髪(しろかみ)までに大君(おほきみ)に仕へまつれば貴(たふと)くもあるか

 

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降り積もる雪のように、真っ白な白髪になるまで大君にお仕えさせていただいたことは、恐れ多く尊いことでございます。

 

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 聖武天皇天平18年(746年)正月、左大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)をはじめ諸臣が元正太上天皇の御在所に参り、雪かきの奉仕をしました。諸兄と元正太上天皇とは年齢も近く、親しい関係にあり、藤原氏の急成長に不安を抱いていた点では、同じ政治的立場にあったとされます。雪かきが終わると、ねぎらいのための宴が行なわれ、雪を題に歌を詠めとの仰せがあり、それに応えた歌です。

 「白髪までに」は、老いて白髪となるまでに、の意。窪田空穂はこの歌を評し、「勅題の雪を枕詞にとどめ、一に皇恩の洪大なことを感謝している、老左大臣にふさわしい歌である。緊張を内に包んで、おおらかに、細部にわたらない、品位ある詠み方をしているのも、その心にふさわしい」と述べています。

 この時の橘諸兄は63歳。敏達天皇の玄孫 美努王(みぬのおう)の子で、光明皇后の異父兄にあたります。初名は葛城王でしたが、のち臣籍に下り橘宿禰諸兄と名乗りました。悪疫で不比等の四子が死没して藤原氏が衰退したのち、右大臣となり政権を握ります。「藤原広嗣の乱」を乗りきり、恭仁京の経営に当たり、左大臣正一位に至って朝臣の姓を与えられるなど全盛を極めましたが、藤原仲麻呂の台頭によって実権を失うこととなります。

 なお、この歌に続き、随伴した諸臣らの詠んだ4首の歌が載っています。
 
〈3923〉天(あめ)の下すでに覆(おほ)ひて降る雪の光りを見れば貴くもあるか
・・・天下を覆い尽くして降り積もった雪のまばゆいばかりの光を見ると、ただただ貴く思われます。~紀清人
 
〈3924〉山の狭(かひ)そことも見えず一昨日(をとつひ)も昨日(きのふ)も今日(けふ)も雪の降れれば
・・・どこが山の谷間とは見分けられないほど、一昨日も昨日も今日も雪が降り続いている。~紀男梶
 
〈3925〉新しき年の初めに豊(とよ)の年しるすとならし雪の降れるは
・・・新しい年の初めに、今年の豊作を告げる印に相違ない、この降り続く雪は。~葛井諸会
 
〈3926〉大宮の内にも外(と)にも光るまで降れる白雪(しらゆき)見れど飽かぬかも
・・・宮殿の内にも外にも光輝くように降り続く白雪は、見ても見ても飽きることがない。~大伴家持

 

 3923は、諸臣の筆頭として、諸兄の歌の結句「貴くもあるか」をそのまま受けて諸兄を立てつつ、太上天皇を讃えています。諸兄の歌とこの歌は、ともに直接的に太上天皇の貴さ、ありがたさをうたっているのに対し、それ以下の3首は、雪の多さや縁起のよさ、美しさなどをうたうことで、間接的に太上天皇を讃えるという歌のつくりになっていることが分かります。宮廷の宴における序列や立場、役割をわきまえる峻厳さが窺えるところです。

 この雪かきの前年(天平17年)に、都は平城京に戻っています。この宴は、家持にとって忘れられない記憶となったらしく、参加して歌を詠んだ人々の名をすべて書きとめています。家持はこの時29歳で、1年前に従五位下に叙せられていたことから、応詔歌を奏することができたのでした。この時の家持は、越中守に任ぜられる直前にあたります。

 なお、これらの歌群の後に次のようなエピソードが記されています。「但、秦忌寸朝元は左大臣橘の卿謔れて云はく、歌を賦するに堪へずは麝を以ちて贖へといふ。此に因りて黙止をりき」と。つまり、諸兄が、歌を披露しようとした秦忌寸朝元(はだのいみきちょうがん)に対し、「お前は唐人だから、どうせ歌は詠めないだろう。罰としてお前の国で採れる麝香(じゃこう)を献上して埋め合わせをせよ」と言って戯れたため、朝元は黙り込んでしまったというのです。

 朝元は、山上憶良と共に渡唐した学問僧・弁正(べんしょう)の子にあたります。弁正は唐の女性を妻にし、その間にできた子が朝元です。しかし、唐の法律では、異国人が唐の妻を連れて帰るのを禁じていたため、弁正は帰国を諦めて唐に残ります。やがて朝元は、父の故郷日本へ渡り、朝廷に仕えて医術師範、漢籍教授、図書頭などを務めました。そんな朝元に対しての諸兄の件の言動は、いくら戯れだったとはいえ、家持にはショックだったと見えます。

 

橘諸兄の略年譜

684年 美努王橘三千代の間に生まれる
710年 無位から従五位下
724年 聖武天皇が即位
    従四位下に叙せられる
729年 藤原四兄弟の陰謀により、長屋王が自殺(長屋王の変
736年 臣籍降下橘諸兄と名乗る
737年 天然痘の流行で藤原四兄弟が死去
    大納言に任ぜられる
738年 正三位、右大臣に任ぜられる
740年 藤原広嗣が政権を批判(藤原広嗣の乱
    諸兄の本拠地に近い恭仁京に遷都
743年 従一位左大臣に任ぜられる
    孝謙天皇が即位
    藤原仲麻呂の発言力が増す
756年 辞職を願い出て致仕
757年 死去、享年74
    子息の橘奈良麻呂が乱を起こし獄死

風交り雪は降りつつ・・・巻第10-1836~1838

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1836
風(かぜ)交(まじ)り雪は降りつつしかすがに霞(かすみ)たなびき春さりにけり

1837
山の際(ま)に鴬(うぐひす)鳴きてうち靡(なび)く春と思へど雪降りしきぬ

1838
峰(を)の上(うへ)に降り置ける雪し風の共(むた)ここに散るらし春にはあれども

 

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〈1836〉風に交じって雪は降り続いているけれど、あたり一面には霞がたなびいていて、春がやってきている。

〈1837〉山あいではウグイスが鳴いていて草木も靡く春だと思われるのに、まだ雪が降り続いている。

〈1838〉峰の上に降り積もっている雪が、吹き降ろす風とともにここまで飛び散って来るようだ。もうとっくに春になっているというのに。

 

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 「雪を詠む」歌。1836の「しかすがに」は、しかしながら、そうはいうものの。「春さる」は、春になる。1837の「山の際」は、山と山の間。「うち靡く」は「春」の枕詞。1838は、左注に「筑波山にて作れる」とあり、「峰の上」は、筑波山の山頂。「風の共」は、風ととともに。「雪し~らし」の「し~らし」は、確信的な推定。

 

雲隠り行くへをなみと・・・巻第6-984

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雲隠(くもがく)り行くへをなみと我(あ)が恋ふる月をや君が見まく欲(ほ)りする

 

要旨 >>>

雲に隠れて行方が分からないと、私が心待ちにしている月を、あなたも見たいとお思いでしょうか。

 

鑑賞 >>>

 豊前国の娘子の月の歌。「娘子の字を大宅(おおやけ)という、姓氏は分からない」とあり、遊行女婦だったと推測されています。「行くへをなみ」は、行方がわからないので。「見まく欲りする」は、見たいと思うだろうか。ただし、この歌は、上掲の解釈では前半と後半の内容が結びつかないため、意味が分かりにくくなっています。そこで、単独の歌ではなく、同じ作者が詠んだ巻第4-709との一連の歌とみて別の解釈を試みているものがあります。709は次のような歌です。

〈709〉夕闇(ゆふやみ)は道たづたづし月待ちて行(い)ませ我(わ)が背子(せこ)その間(ま)にも見む
 ・・・夕闇は道がおぼつかないでしょう。月の出を待ってからお行きなさい。お帰りになるその間、月の光で後ろ姿を見送りましょう。

 双方とも「月と恋人の男」を詠んだ共通の歌であることが分かります。そして、984は709の続きとして、「月が雲に隠れ、あなたが帰る道の行方が分からないからという口実であなたを引き留めることができるので、このまま隠れていてほしいと思っている月なのに、あなたはその月を早く見たいというのでしょうか」のように解釈しています。709と離れて配置されている984を、こうして並べてみると、どちらも、月が隠れていることを理由に、男の帰りを少しでも長く引き留めようとする女の気持ちが浮かびあがってきます。

 

梅の花夢に語らく・・・巻第5-852

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梅の花(はな)夢(いめ)に語らくみやびたる花と我思(あれも)ふ酒に浮かべこそ

 

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梅の花が、夢の中で私に語ったことには、私は自分を風雅な花だと自負してます、どうか私にふさわしく、酒杯に浮かべてください、と。

 

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 大宰府で詠まれた「梅花の歌」32首のあとに「後に追和した」歌として載っている歌です。作者名は記されていませんが、大伴旅人山上憶良、あるいは坂上郎女ともいわれます。梅花に仙女を連想する神仙趣味は、まさに旅人のようであります。「語らく」は、語ることには。「みやびたる」は、風雅な、高雅な。「こそ」は、願望の助詞。

 

筑紫歌壇

 大伴旅人、小野老、山上憶良、沙弥満誓、大伴四綱、大伴坂上郎女など、錚々たる万葉歌人が、当時の筑紫に都から赴任していました。大宰帥大伴旅人邸には、これらの歌人が集い、あたかも中央の文壇がこぞって筑紫に移動したような、華やかなサロンを形成していたようです。

 725年、山上憶良筑前守に就任、次いで727年に大伴旅人が太宰帥に就任。この頃から730年10月に旅人が大納言に昇進して12月頃に太宰府を離れるまでが、九州筑紫の地に万葉文化が花開いた時期でした。