大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

しかとあらぬ五百代小田を・・・巻第8-1592~1593

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1592
しかとあらぬ五百代(いほしろ)小田(をだ)を刈り乱り田廬(たぶせ)に居(を)れば都し思ほゆ

1593
隠口(こもりく)の泊瀬(はつせ)の山は色づきぬ時雨(しぐれ)の雨は降りにけらしも

 

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〈1592〉わずかばかりの五百代の田を、慣れない手つきでうまく刈れずに番小屋にいると、都のことが思い出される。

〈1593〉泊瀬の山は色づいてきたところです。山ではもう時雨が降ったのでしょうね。

 

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 天平11年(739年)9月、大伴坂上郎女が、竹田の庄で作った歌2首。「竹田の庄」は、大伴氏が有していた荘園の一つで、奈良県橿原市東竹田町、耳成山の北東の地にあったとされます。そこに行って自ら稲刈りをしたという歌です。実際に自身が稲刈りしたかどうかは分かりませんが、使用している農民の監督方々、番小屋に寝泊りしたのは事実のようです。

 1592の「しかとあらぬ」は、さほどでもない、たいしたことない。「五百代」は、田の面積を表しており、1町(約1ヘクタール)の広さ。貴族の荘園としては確かに広くありませんが、あるいは郎女の謙遜かもしれません。「刈り乱り」は、刈り散らして。「田廬」は、番小屋のこと。1593の「隠口の」は「泊瀬」の枕詞。「泊瀬の山」は、竹田の庄から東に見える三輪山や巻向山。

 

東歌(34)・・・巻第14-3544

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阿須可川(あすかがは)下(した)濁(にご)れるを知らずして背(せ)ななと二人さ寝(ね)て悔しも

 

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阿須可川の底が濁っていること、そう、心が濁っているのを知らずに、あんな人と寝てしまって、なんて悔しい。

 

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 女の歌。「阿須可川」は、大和の明日香川か東国の川か未詳。「下濁れる」は、男が不誠実だった喩え。「背なな」は、女性から男性を親しんでいう語。「背な」の「な」がすでに親愛の接尾語なのに、語調を重んじて「な」を重ねています。「悔しも」の「も」は詠嘆の終助詞。相手の内面をよく知らないまま関係を持ってしまったことを後悔している歌です。

 

標結ひて我が定めてし・・・巻第3-394

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標(しめ)結(ゆ)ひて我(わ)が定めてし住吉(すみのえ)の浜の小松は後(のち)も我(わ)が松

 

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標を張って我がものと定めた住吉の浜の小松は、後もずっと私の松なのだ。

 

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 余明軍(よのみょうぐん)は、百済の王族系の人。帰化して大伴旅人の資人(つかいびと)となり、旅人が亡くなった時に詠んだ歌(巻第3-454~458)を残しています。「資人」は、高位の人に公に給される従者のことで、に主人の警固や雑役に従事しました。

 「標」は、自分の所有であることを示す印。「住吉」は、大阪市住吉区。「小松」の「小」は、小さい意味ではなく、親しんで添えた語。松を女に喩えており、住吉の遊行女婦を指しているとみられます。「標結ひて我が定めてし」は、その女と契りを結んだことの比喩。「後も我が松」といって、愛する女を独り占めしたい男の心情を詠っています。

 この歌の2句目の原文は「我定義之」で、「義之」を「てし」と訓みますが、長らく訓が定まらず、これを解読したのは、江戸時代の国文学者・本居宣長です。宣長は、まずこれを中国東晋の「王羲之(おうぎし)」の「羲之(義之)」と考えました。王羲之は政治家であるとともに書家として有名だった人です。宣長は、当時、書家を「手師(てし)」と呼んだことに思い至り、「義之」を「てし」と読み解いたのです。『万葉集』ができてから実に千年も後のことでした。

 

高御座天の日継と・・・巻第18-4098~4100

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4098
高御座(たかみくら) 天(あま)の日継(ひつぎ)と 天(あめ)の下(した) 知らしめしける 皇祖(すめろき)の 神の命(みこと)の 畏(かしこ)くも 始めたまひて 貴(たふと)くも 定めたまへる み吉野の この大宮に あり通(がよ)ひ 見(め)し給(たま)ふらし もののふの 八十伴(やそとも)の男(を)も 己(おの)が負(お)へる 己(おの)が名(な)負ひて 大君(おほきみ)の 任(ま)けのまにまに この川の 絶(た)ゆることなく この山の いや継(つ)ぎ継ぎに かくしこそ 仕(つか)へ奉(まつ)らめ いや遠長(とほなが)に

4099
いにしへを思ほすらしも我(わ)ご大君(おほきみ)吉野の宮をあり通(がよ)ひ見(め)す

4100
もののふの八十氏人(やそうぢびと)も吉野川(よしのがは)絶ゆることなく仕(つか)へつつ見(み)む

 

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〈4098〉高い御位にいます、日の神の後継ぎとして、天下を治めてこられた古の天皇、その神の命が、恐れ多くもお始めになり、尊くもお定めになられた、吉野のこの大宮、そんな大宮だと、我が大君はここに通い続けられ、風景をご覧になられる。もろもろの官人たちも、自分たちが負っている家名を背に、大君の仰せのままに、この川の絶えることがないように、この山が幾重にも重なり続いているように、次々とお仕え申し上げよう。いつまでもずっと。

〈4099〉遠い昔を思っておいでのことだろうか。わが大君は吉野の宮に通っておいでになっては、ここの風景をご覧になっていらっしゃる。

〈4100〉もろもろの氏の名を負い持つわれら官人も、吉野川が絶えることがないように、いつまでもお仕えしつつ見ようではないか。

 

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 大伴家持の歌。題詞には、天皇が吉野の離宮行幸されるときのために、あらかじめ用意して作った歌とあります。天皇聖武天皇

 4098のの「高御座」は、天皇の地位を象徴する八角造りの御座。「天の日継」は、天照大御神の系統を受け継ぐこと、天皇の位。「知らしめす」は、お治めになる。「皇祖の神の命」は、天皇。「もののふ」は、廷臣。「八十伴の男」は、多くの役人。「任け」は、任命。「まにまに」は、~のままに。4099の「いにしへ」は、天武天皇持統天皇がたびたび吉野を訪れていた時代のこと。「見す」は「見る」の尊敬語。4100の「八十氏人」は、多くの氏の人。

 

ゆくへなくありわたるとも霍公鳥・・・巻第18-4089~4092

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4089
高御座(たかみくら) 天(あま)の日継(ひつぎ)と 皇祖(すめろき)の 神の命(みこと)の 聞こし食(を)す 国のまほらに 山をしも さはに多みと 百鳥(ももとり)の 来居(きゐ)て鳴く声 春されば 聞きのかなしも いづれをか 別(わ)きて偲(しの)はむ 卯(う)の花の 咲く月立てば めづらしく 鳴くほととぎす あやめ草 玉 貫(ぬ)くまでに 昼暮らし 夜(よ)渡し聞けど 聞くごとに 心つごきて うち嘆き あはれの鳥と 言はぬ時なし

4090
ゆくへなくありわたるとも霍公鳥(ほととぎす)鳴きし渡らばかくや偲(しの)はむ

4091
卯(う)の花のともにし鳴けば霍公鳥(ほととぎす)いやめづらしも名告(なの)り鳴くなへ

4092
霍公鳥(ほととぎす)いとねたけくは橘(たちばな)の花散る時に来鳴き響(とよ)むる

 

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〈4089〉高い御位にいます、日の神の後継ぎとして、代々の天皇がお治めになるこの国のすぐれた所に、山々は多く、さまざまな鳥がやってきて鳴く、その声は春になるとひとしお愛しい。いずれの鳥の声が愛しいというわけではないが、とくに卯の花の咲く季節がやってくると、懐かしく鳴くホトトギス。その声は、菖蒲(あやめ)を薬玉に通す五月まで、昼は終日、夜は夜どおし聞くけれど、そのたびに心が激しく動き、ため息をつき、ああ何と趣きの深い鳥と言わない時はない。

〈4090〉途方に暮れた日々を送ることがあっても、ホトトギスが鳴きながら飛び渡って行けば、今と同じように聞き惚れることだろう。

〈4091〉卯の花が咲くとともにホトトギスが鳴くのには、いよいよ心が引かれる。ちょうど自分はホトトギスだよと名告っていると共に。

〈4092〉ホトトギスがやたら小憎らしいのは、橘の花が散る時にやって来て鳴き立てるせいだ。

 

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 天平勝宝元年(749年)5月10日、大伴家持が一人部屋の中にいて、はるかにホトトギスが鳴くのを聞いて作った歌。4089の「高御座」は、天皇の地位を象徴する八角造りの御座。「天の日継」は、天照大御神の系統を受け継ぐこと、天皇の位。「皇祖の神の命」は、天皇。「聞こし食す」は、お治めになる。「まほら」は、秀でた所。「山をしも」の「しも」は、強調の助詞。「さはに」は、数多く。「玉貫く」は、端午の節句に薬玉を飾ること。「うち嘆き」の「うち」は接頭語。

 4090の「ゆくへなく」は、なすすべもなく途方に暮れて。4091の「鳴くなへ」の「なへ」は、~と共に。ホトトギスの鳴き声は、今では「トッキョ、キョカキョク」とか「テッペン、カケタカ」などと表されますが、当時の人たちには「ホット、トギス」と名乗っているように聞こえたのかもしれません。4092の「ねたけく」は「嫉(ねた)し」の名詞形。嫉ましい。

 家持には、「独り」の思いだとして作った歌がしばしば見られます。「独詠歌」、つまり、聞き手や相手の存在を前提としない歌、何らかの要請があって作ったものではない歌、自身が詠みたいから詠んだ歌です。家持より前には、こうしたありようを意識した人はなく、その意味では、家持は日本ではじめての「文学者」といってよいのかもしれません。

 

焼太刀を砺波の関に・・・巻第18-4085

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焼太刀(やきたち)を砺波(となみ)の関(せき)に明日(あす)よりは守部(もりへ)遣(や)り添へ君を留(とど)めむ

 

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焼いて鍛えた太刀、その太刀を研ぐという砺波の関に、明日からは番人を増やして、あなたにゆっくり留まっていただきましょう。

 

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 天平勝宝元年(749年)5月5日、東大寺の占墾地使(せんこんじし)の僧(そう)平栄(へいえい)らをもてなした時、大伴家持が酒を僧に贈った歌。「占墾地使」は、寺院に認められた開墾地(荘園)の所属を確認する使者で、この時期、平栄らは越中に入って活動していました。

 東大寺や中央貴族の墾田地(荘園)を占有するため、国守の家持にもその行政力が期待されていました。家持が在任中に成立した越中国内の東大寺荘園は、天平21年(749年)4月1日詔書の「寺院墾田地許可令」にもとづき、射水郡4か所、砺波郡1か所、新川郡2か所の合計7か所から始まっています。「焼き太刀を」は「砺波」の枕詞。「砺波の関」は、越中と越前の国境にあった関。「守部」は番人、ここでは関所の役人。

 

大伴家持が菟原処女の墓の歌に追同した歌・・・巻第19-4211~4212

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4211
古(いにしへ)に ありけるわざの くすばしき 事と言ひ継(つ)ぐ 茅渟壮士(ちぬをとこ) 菟原壮士(うなひをとこ)の うつせみの 名を争ふと たまきはる 命(いのち)も捨てて 争ひに 妻問(つまど)ひしける 処女(をとめ)らが 聞けば悲しさ 春花(はるはな)の にほえ栄(さか)えて 秋の葉の にほひに照れる あたらしき 身の盛(さか)りすら ますらをの 言(こと)いたはしみ 父母(ちちはは)に 申(まを)し別れて 家離(いへざか)り 海辺(うみへ)に出で立ち 朝夕(あさよひ)に 満ち来る潮(しほ)の 八重(やへ)波に 靡(なび)く玉藻(たまも)の 節(ふし)の間(ま)も 惜(を)しき命(いのち)を 露霜(つゆしも)の 過ぎましにけれ 奥城(おくつき)を ここと定めて 後(のち)の世の 聞き継ぐ人も いや遠(とほ)に 偲(しの)ひにせよと 黄楊小櫛(つげをぐし) 然(しか)挿(さ)しけらし 生(お)ひて靡(なび)けり

4212
処女(をとめ)らが後(のち)の標(しるし)と黄楊小櫛(つげをぐし)生(お)ひ変(かは)り生(お)ひて靡(なび)きけらしも

 

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〈4211〉遠い昔にあったという、世にも珍しい出来事として言い伝えられてきた、茅渟壮士(ちぬおとこ)と菟原壮士(うないおとこ)の乙女をめぐる伝説。二人は、この世の名誉にかけて争い、命がけで、乙女に妻どいしたという、その乙女の伝説は、聞くも悲しい。春の花のように光り輝き、秋の紅葉のように美しい、そんなもったいない女盛りでありながら、二人の男の言い寄る言葉をつらく思い、父母に事情を告げて家を出て、海辺にたたずんだ。朝に夕に満ちてくる潮の、幾重も波になびく玉藻、その玉藻の一節の間ほどのあいだも惜しい命なのに、はかない露霜のように消え果ててしまった。墓所をここと定めて後の世の人たちも語り継いで、いつまでも乙女を偲ぶよすがにしようと、乙女の黄楊の小櫛をそんなふうに墓に挿したらしい。それが生え育って、こうして靡いていることだ。

〈4212〉乙女が後の世の人へのしるしにと残した黄楊の小櫛。この櫛は木となって育ち、靡いているのだろう。

 

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 蘆屋(あしや)の菟原処女(うないおとめ)の伝説を歌った、田辺福麻呂の1801~1803、高橋虫麻呂の1809~1811などに、後から大伴家持が唱和したもの。

 4211の「くすばし」は、珍しい、不思議だ、の意。「たまきはる」は「命」の枕詞。「茅渟」は、堺市から岸和田市にかけての地。「あたらし」は、もったいない。「朝夕に~靡く玉藻の」は「節の間」を導く序詞。「露霜の」は「過ぐ」の枕詞。「奥城」は墓。「黄楊小櫛」はツゲの木で作った櫛。

 菟原乙女は二人の男に求婚され、その板ばさみに苦しんで自殺したという伝説の美女です。菟原は、蘆屋から神戸市にかけての地とされ、神戸市東灘区御影町には「処女(おとめ)塚」が、その東西1kmほどの所には二人の男の「求女(もとめ)塚」が残っています。菟原乙女は同じ郷里の菟原壮士よりも、他所から来た茅渟壮士が好きだったようです。しかし、いくら心が傾いても、よそ者を受け入れることができなかったのです。

 この菟原乙女の伝説は『大和物語』にも載っており、乙女が死ぬ間際に詠んだという「住みわびぬ我が身投げてむ津の国の生田の川は名のみなりけり」という歌があります。後には観阿弥による謡曲『求塚』に発展し、さらには森鴎外の戯曲『生田川』にも採り上げられています。なお、現在、処女塚の西のわきには、田辺福麿が詠んだ「古への小竹田壮士の妻問ひし菟会処女の奥津城ぞこれ」の歌碑が置かれています。