大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

山の端のささら愛壮士・・・巻第6-983

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山の端(は)のささら愛壮士(えをとこ)天(あま)の原(はら)門(と)渡る光(ひかり)見らくし好(よ)しも

 

要旨 >>>

山の端に出てきた小さな月の美男子が、天の原を渡りつつ照らす光の何とすばらしい眺めでしょう。

 

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 大伴坂上郎女が詠んだ「月の歌」。「ささら愛壮士」の「ささら」は天上の地名、「愛壮士」は小さく愛らしい男の意で、月を譬えています。左注に、ある人が郎女に、月の別名をささらえ壮子というと話すと、郎女はその名に興味をもち、それを詠み込む形で一首にしようとした、とあります。「ささら愛壮士」を詠んだ歌は、集中この1首しかなく、月の中でも特に上弦の月をいったのではないかとする説もあります。「門渡る」の「門」は、ここでは山が両側にあって門のように空が狭くなっている所。「見らくし好しも」の「見らく」は動詞「見る」の名詞形。「し」は強意。「好しも」の「も」は詠歎。

 

大伴坂上郎女の略年譜

大伴安麻呂石川内命婦の間に生まれるが、生年未詳(696年前後、あるいは701年か)
16~17歳頃に穂積皇子に嫁す
714年、父・安麻呂が死去
715年、穂積皇子が死去。その後、宮廷に留まり命婦として仕えたか
721年、藤原麻呂左京大夫となる。麻呂の恋人になるが、しばらくして別れる
724年頃、異母兄の大伴宿奈麻呂に嫁す
坂上大嬢と坂上二嬢を生む
727年、異母兄の大伴旅人が太宰帥になる
728年頃、旅人の妻が死去。坂上郎女が大宰府に赴き、家持と書持を養育
730年 旅人が大納言となり帰郷。郎女も帰京
730年、旅人が死去。郎女は本宅の佐保邸で刀自として家政を取り仕切る
746年、娘婿となった家持が国守として越中国に赴任
750年、越中国の家持に同行していた娘の大嬢に歌を贈る(郎女の最後の歌)
没年未詳

春の日に張れる柳を取り持ちて・・・巻第19-4142

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春の日に張れる柳(やなぎ)を取り持ちて見れば都の大道(おほち)し思ほゆ

 

要旨 >>>

春の日に、芽吹いてきた柳の小枝を折り取って眺めると、奈良の都の大路が思い起こされてならない。

 

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 天平勝宝2年(750年)の3月2日、大伴家持が、新柳の枝を折り取って都を思う歌。この時33歳の家持は、越中での4度目の春を迎えていました。

 「張れる」は、芽が出る、ふくらむ。「大道し」の「し」は強意。この歌から、当時の都大路の並木には柳が植えられていたことが分かります。柳は漢詩的な素材であり、柳葉は化粧をした女性の細い眉に譬えられます。家持は都大路のことを思い出すと同時に、都の美女たちのことも思い浮かべていたのかもしれません。

 

春日なる御笠の山に・・・巻第7-1295

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春日(かすが)なる御笠(みかさ)の山に月の舟(ふね)出(い)づ遊士(みやびを)の飲む酒杯(さかづき)に影に見えつつ

 

要旨 >>>

春日の三笠の山に、船のような月が出た。風流な人たちが飲む酒杯の中に映り見えながら。

 

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 巻第7の「旋頭歌」の部の最後におかれたこの一首は、『柿本人麻呂歌集』からの歌や作者未詳歌が多い中にあって異彩を放つ歌となっています。庶民生活の味わいが濃く出ていた人麻呂歌集の歌とは違い、繊細美を愛する貴族趣味が横溢しています。詠まれた時代も奈良時代であり、歌の趣きからも明らかです。大伴家持の周辺の人々を思わせるもので、あるいは家持の作かもしれないといわれています。「春日なる」は、春日にある。「御笠の山」は平城京から見て東にある山なので、月の出を待つ山。「月の舟」は、三日月の比喩。月の形が舟に似ているところから。「遊士」は、都風の風雅を解する人。「影に見えつつ」は、姿を見せ続けている。

 

朱らひく膚に触れずて・・・巻第11-2399

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朱(あか)らひく膚(はだ)に触れずて寝たれども心を異(け)しく我が念(も)はなくに

 

要旨 >>>

今夜はお前の美しい肌にも触れずに一人寝したが、それでも決してお前以外の人を思っているわけではないからね。

 

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 「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。「朱らひく」は、赤い血潮がたぎる意で、血行がよく健康な肌のこと。「心を異しく」は、心が変わって。

 男の歌として解しましたが、どちらの歌かは不明です。男の歌だとすると、同宿したにもかかわらず相手の女の肌に触れなかったことを弁解しており、女の歌だとすると、何らかの事情で男に断って言った形のものです。いずれの場合も理由ははっきりしませんが、あるいはこの時代、女性は神事に奉仕する場合が多く、その期間は男女関係を断つことになっていたといいます。

 

柿本人麻呂歌集』について

 『万葉集』には題詞に人麻呂作とある歌が80余首あり、それ以外に『人麻呂歌集』から採ったという歌が375首あります。『人麻呂歌集』は『万葉集』成立以前の和歌集で、人麻呂が2巻に編集したものとみられています。

 この歌集から『万葉集』に収録された歌は、全部で9つの巻にわたっています(巻第2に1首、巻第3に1首、巻第3に1首、巻第7に56首、巻第9に49首、巻第10に68首、巻第11に163首、巻第12に29首、巻第13に3首、巻第14に5首。中には重複歌あり)。

 ただし、それらの中には女性の歌や明らかに別人の作、伝承歌もあり、すべてが人麻呂の作というわけではないようです。題詞もなく作者名も記されていない歌がほとんどなので、それらのどれが人麻呂自身の歌でどれが違うかのかの区別ができず、おそらく永久に解決できないだろうとされています。

 文学者の中西進氏は、人麻呂はその存命中に歌のノートを持っており、行幸に従った折の自作や他作をメモしたり、土地土地の庶民の歌、また個人的な生活や旅行のなかで詠じたり聞いたりした歌を記録したのだろうと述べています。

忘るやと物語りして・・・巻第12-2844~2847

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2844
このころの寐(い)の寝(ね)らえぬは敷栲(しきたへ)の手枕(たまくら)まきて寝(ね)まく欲(ほ)りこそ

2845
忘るやと物語りして心遣(こころや)り過ぐせど過ぎずなほ恋ひにけり

2846
夜も寝(ね)ず安くもあらず白栲(しろたへ)の衣(ころも)は脱かじ直(ただ)に逢ふまでに

2847
後も逢はむ我(あ)にな恋ひそと妹(いも)は言へど恋ふる間(あひだ)に年は経(へ)につつ

 

要旨 >>>

〈2844〉このごろ寝るに寝られないのは、妻と手枕を交わして寝たいと思うからだ。

〈2845〉忘れられるかと、人と世間話などして気を紛らせて、物思いを消し去ろうとしたが、いっそう恋心は募るばかりだ。

〈2846〉夜も寝られず、気も休まることがない。衣は脱がずにいよう、じかに逢うまで。

〈2847〉「また後にはお逢いしましょう。私にそんなに恋い焦がれないで」と妻は言うけれど、恋い続けているうちに年月は過ぎてゆく。

 

鑑賞 >>>

 「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。いずれも、旅にある男が妻に贈った歌。2844の「寐」は眠りの名詞形。「敷栲の」は「枕」の枕詞。久しく逢えないので手枕を巻けない悩ましさを率直に言っています。2845の「忘るや」は、恋の苦しみを忘れることができるだろうか、の意。「物語して」は、話をして。ここでは雑談。「過ぐせど過ぎず」は、忘れようとするが、忘れられず。過去のものとしようとするが、そうはならず。

 2846の「白栲の」は「衣」の枕詞。「衣は脱かじ」は、寝ない意。国文学者の窪田空穂はこの歌について「文芸意識を全く棄て、昂奮した気分を凝集させて、一句で切り、二句で切り、四句で切って、結句で言い据えているという特殊な形の歌である。それでいて一首としては安定感をもち、軽くないものとなっているのは、気分で貫いているからである。手腕ある作というべき」と言っています。

 2847の「我にな恋ひそ」の「な~そ」は禁止。おそらく上の3首を贈られた妻が「後に逢えるので私を恋しがらないで」と落ち着いて答えたのでしょう。それに対し、恋情を抑えきれない夫は、まるで駄々をこねているようであります。

 

柿本人麻呂歌集』について

 『万葉集』には題詞に人麻呂作とある歌が80余首あり、それ以外に『人麻呂歌集』から採ったという歌が375首あります。『人麻呂歌集』は『万葉集』成立以前の和歌集で、人麻呂が2巻に編集したものとみられています。

 この歌集から『万葉集』に収録された歌は、全部で9つの巻にわたっています(巻第2に1首、巻第3に1首、巻第3に1首、巻第7に56首、巻第9に49首、巻第10に68首、巻第11に163首、巻第12に29首、巻第13に3首、巻第14に5首。中には重複歌あり)。

 ただし、それらの中には女性の歌や明らかに別人の作、伝承歌もあり、すべてが人麻呂の作というわけではないようです。題詞もなく作者名も記されていない歌がほとんどなので、それらのどれが人麻呂自身の歌でどれが違うかのかの区別ができず、おそらく永久に解決できないだろうとされています。

 文学者の中西進氏は、人麻呂はその存命中に歌のノートを持っており、行幸に従った折の自作や他作をメモしたり、土地土地の庶民の歌、また個人的な生活や旅行のなかで詠じたり聞いたりした歌を記録したのだろうと述べています。

色に出でて恋ひば・・・巻第11-2566

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色に出でて恋ひば人見て知りぬべし心のうちの隠(こも)り妻はも

 

要旨 >>>

顔色に出して恋い慕ったなら、人が見咎めて知るだろう、心のうちの隠し妻のことを。

 

鑑賞 >>>

 「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。「色に出でて」は、顔色に出して。「知りぬべし」は、知ってしまうだろうの意で、「知るべし」の強調。「隠り妻」は、まだ公表できず人目を避けて隠れている妻。「隠り」は隠れて見えないものを示すことばで、葦などが茂って水面がよく見えない入江は「隠江(こもりえ)」、草木に隠れて見えない沼は「隠沼(こもりぬ)」などといいます。

 万葉時代の恋愛は自由で奔放だったと思われがちですが、今も昔もプロセスが大事であることに変わりはなく、ある段階が来てはじめて公表するものでした。恋愛といえども社会生活の一部ですから、その当時なりのルールがあったわけです。忍ぶ恋をうたう歌や、噂が立つのを極度に恐れる歌が多くみられるのはそのためで、結婚に至るまでの各段階の心情を伝えてくれる『万葉集』は、古代の結婚制度を研究する上で第一級の史料ともなっています。

 

防人の歌(25)・・・巻第20-4418

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我が門(かど)の片山椿(かたやまつばき)まこと汝(な)れ我が手触れなな土に落ちもかも

 

要旨 >>>

わが家の門の傍らに咲く椿の花よ。まことお前は私が手を触れない間に、地面に落ちてしまうのだろうか。

 

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 武蔵国の防人の歌。「片山椿」は、山の傾斜地に生えている椿のことですが、ここでは夫婦の片一方を残していくことの比喩。「触れなな」は「触れずに」の方言。「地に落ちもかも」は、留守中に周囲の若い男子のものとなりはしないだろうかとの、心配の譬喩。窪田空穂は、「隠喩仕立てにしているのは、若い防人の歌としてはふさわしくないまでの技巧であるが、女との関係がら、また場合がら、気分が複雑しているので、隠喩にするよりはかなかったものと思われる。すぐれた歌である」と評しています。