大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

高御座天の日継と・・・巻第18-4098~4100

訓読 >>>

4098
高御座(たかみくら) 天(あま)の日継(ひつぎ)と 天(あめ)の下(した) 知らしめしける 皇祖(すめろき)の 神の命(みこと)の 畏(かしこ)くも 始めたまひて 貴(たふと)くも 定めたまへる み吉野の この大宮に あり通(がよ)ひ 見(め)し給(たま)ふらし もののふの 八十伴(やそとも)の男(を)も 己(おの)が負(お)へる 己(おの)が名(な)負ひて 大君(おほきみ)の 任(ま)けのまにまに この川の 絶(た)ゆることなく この山の いや継(つ)ぎ継ぎに かくしこそ 仕(つか)へ奉(まつ)らめ いや遠長(とほなが)に

4099
いにしへを思ほすらしも我(わ)ご大君(おほきみ)吉野の宮をあり通(がよ)ひ見(め)す

4100
もののふの八十氏人(やそうぢびと)も吉野川(よしのがは)絶ゆることなく仕(つか)へつつ見(み)む

 

要旨 >>>

〈4098〉高い御位にいます、日の神の後継ぎとして、天下を治めてこられた古の天皇、その神の命が、恐れ多くもお始めになり、尊くもお定めになられた、吉野のこの大宮、そんな大宮だと、我が大君はここに通い続けられ、風景をご覧になられる。もろもろの官人たちも、自分たちが負っている家名を背に、大君の仰せのままに、この川の絶えることがないように、この山が幾重にも重なり続いているように、次々とお仕え申し上げよう。いつまでもずっと。

〈4099〉遠い昔を思っておいでのことだろうか。わが大君は吉野の宮に通っておいでになっては、ここの風景をご覧になっていらっしゃる。

〈4100〉もろもろの氏の名を負い持つわれら官人も、吉野川が絶えることがないように、いつまでもお仕えしつつ見ようではないか。

 

鑑賞 >>>

 大伴家持の歌。題詞には、天皇が吉野の離宮行幸されるときのために、あらかじめ用意して作った歌とあります。天皇聖武天皇

 4098のの「高御座」は、天皇の地位を象徴する八角造りの御座。「天の日継」は、天照大御神の系統を受け継ぐこと、天皇の位。「知らしめす」は、お治めになる。「皇祖の神の命」は、天皇。「もののふ」は、廷臣。「八十伴の男」は、多くの役人。「任け」は、任命。「まにまに」は、~のままに。4099の「いにしへ」は、天武天皇持統天皇がたびたび吉野を訪れていた時代のこと。「見す」は「見る」の尊敬語。4100の「八十氏人」は、多くの氏の人。

 大台ケ原から流れ出した吉野川は、蛇行しながら北西に流れ、五條市を抜けて和歌山に入り、そこから紀の川と名前を変えます。

 

 

 

大伴家持の生涯

 大伴家持は、大伴旅人の晩年54歳の時の子で、母は妾であった丹比(たぢひ)氏の女性。生年は養老2年(718年)とする説が有力です。神亀5年(728年)に父旅人が大宰帥大宰府の長官)として西下。11歳の家持もこれに従い、程なく養母の大伴女郎を失います。帰京後の天平3年(731年)父旅人も死去。天平5年、16歳になった家持は、年月の明らかな歌では初めて『万葉集』に歌(巻第6-994)を残します。同6年、17歳の時に、蔭位制により内舎人(うどねり)として出仕。同13年、24歳で正六位上。出仕以後の数年間に妾を亡くし(2人の遺児あり)、坂上大嬢と結婚。この頃、聖武天皇によって都が平城京から恭仁・難波・紫香楽(しがらき)の各京を転々としたため、官吏である家持の居所も佐保に一定しませんでした。同18年、29歳の時に、宮内少輔を経て越中守となり赴任、天平勝宝3年(751年)、34歳で帰京、少納言に。翌年にかけて東大寺大仏開眼会があり、同5年、36歳の時に絶唱春愁三絶(巻第19-4290~4292)を残します。同6年、兵部少輔、更に山陰巡察使を兼ね、7年2~3月に防人を検閲。この間、6年8月から7年2月まで作歌を欠きます。天平宝字元年(757年)6月、兵部大輔。7月に橘奈良麻呂の変が勃発、12月頃に右中弁。同2年、41歳で因幡守となり、同3年(759年)正月の賀歌(巻第20-4516)を『万葉集』の最終歌として、以後の作歌は伝わっていません。その後、薩摩守、太宰少弐、中務大輔、相模守、左京大夫、伊勢守等を歴任し、宝亀11年(780年)に参議。天応元年(781年)春宮大夫を兼ね、従三位延暦2年(783年)に中納言となり、同4年8月に68歳で死去。ただし、死後まもなくに起こった藤原種継射殺事件に連座して元の官位を奪われ、大同元年(806年)まで従三位への復位はなされませんでした。

【為ご参考】万葉仮名

大伴家持の歌(索引)