大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

標結ひて我が定めてし・・・巻第3-394

訓読 >>>

標(しめ)結(ゆ)ひて我(わ)が定めてし住吉(すみのえ)の浜の小松は後(のち)も我(わ)が松

 

要旨 >>>

標を張って我がものと定めた住吉の浜の小松は、後もずっと私の松なのだ。

 

鑑賞 >>>

 余明軍(よのみょうぐん)は、百済の王族系の人。帰化して大伴旅人の資人(つかいびと)となり、旅人が亡くなった時に詠んだ歌(巻第3-454~458)を残しています。「資人」は、高位の人に公に給される従者のことで、に主人の警固や雑役に従事しました。

 「標」は、自分の所有であることを示す印。「住吉」は、大阪市住吉区。「小松」の「小」は、小さい意味ではなく、親しんで添えた語。松を女に喩えており、住吉の遊行女婦を指しているとみられます。「標結ひて我が定めてし」は、その女と契りを結んだことの比喩。「後も我が松」といって、愛する女を独り占めしたい男の心情を詠っています。

 この歌の2句目の原文は「我定義之」で、「義之」を「てし」と訓みますが、長らく訓が定まらず、これを解読したのは、江戸時代の国文学者・本居宣長です。宣長は、まずこれを中国東晋の「王羲之(おうぎし)」の「羲之(義之)」と考えました。王羲之は政治家であるとともに書家として有名だった人です。宣長は、当時、書家を「手師(てし)」と呼んだことに思い至り、「義之」を「てし」と読み解いたのです。『万葉集』ができてから実に千年も後のことでした。