大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

遣唐使の息子を見送る母の歌・・・巻第9-1790~1791

訓読>>>

1790
秋萩(あきはぎ)を 妻問う鹿(か)こそ 独子(ひとりご)に 子持てりといへ 鹿児(かこ)じもの わが独子の 草枕 旅にし行けば 竹珠(たかだま)を しじに貫(ぬ)き垂(た)り 斎瓮(いはひべ)に 木綿(ゆふ)取り垂(し)でて 斎(いは)ひつつ わが思ふ吾(あ)が子 真幸(まさき)くありこそ

1791
旅人の宿(やど)りせむ野に霜(しも)降らば我(あ)が子(こ)羽(は)ぐくめ天(あめ)の鶴群(たづむら)

 

要旨>>>

〈1790〉秋萩を妻として訪れる鹿は一人の子を持つと言うが、その鹿のように、私にはたった一人しかいない息子が旅立ってしまうので、竹玉を緒いっぱいに通して垂らし、斎瓮に木綿を垂らして、身を清めて神を祭り、案じているわが子よ、どうか無事でいてほしい。

〈1791〉旅人が宿る野に、もし霜が降るなら、どうか我が子を羽で包んでおくれ、天を行く鶴の群れよ。

 

鑑賞>>>

 遣唐使の一行の中の誰かの母親が詠んだ歌ですが、母子ともその名は伝わっていません。一人息子を海外への旅に出さなければならない母親の、不安と切ない気持ちを歌った長歌反歌です。当時の遣唐使の旅は、無事に帰国できるほうが珍しいほどの危険な航海でした。この時の遣唐大使は多治比広成(たじひのひろなり)で、天平5年(733年)4月3日に難波の港を出帆しましたが、この回の船旅も悲惨な結果となり、出発した4隻のうち2隻しか祖国に戻ってこなかったといいます。歌を詠んだ母親の息子は無事だったのでしょうか。

 1790の「草枕」は「旅」の枕詞。「鹿児じもの」は、鹿の子のように。鹿は一回の出産で一頭しか子を産まないことから、このように言っています。「竹珠」は、細い竹を輪切りにして装飾に用いた玉のことで、神事に使用したとされます。「斎瓮」は、神に献上する酒を盛る器のこと。「木綿」は、楮(こうぞ)の繊維で、神前に供えるもの。「真幸くありこそ」の「こそ」は、願望。1791の「羽ぐくむ」は、もともとは羽で包んで愛撫する意でしたが、転じて育む、養育するという意味になった言葉です。

 斎藤茂吉は、1791の歌について、次のように言っています。「母親がひとり子の遠い旅を思う心情は一とおりでないのだが、天の群鶴にその保護を頼むというのは、今ならば文学的の技巧を直ぐ聯想(れんそう)するし、実際また詩的に表現しているのである。けれども当時の人々は吾々の今感ずるよりも、もっと自然に直接にこういうことを感じていたものに相違ない。それは万葉の他の歌を見ても分かるし、物に寄する歌でも、序詞のある歌でも、吾等の考えるよりももっと直接に感じつつああいう技法を取ったものに相違ない。そこで此歌でも、毫(ごう)もこだわりのない純粋な響を伝えているのである。もの云いに狐疑(こぎ)が無く不安が無く、子をおもうための願望を、ただその儘に云いあらわし得たのである」。

 それにしても、作者である「母」は相当な身分の人で、知的教養の豊かな人であったことが察せられます。国文学者の池田彌三郎は、「一つにはこの歌が第九に収められているという外的条件にもよる。第九は奈良朝の、外国の文化に触れた文人集団と関連の深い成立だから、この『母』もそういう人々の中に置いてみるべきかと思う。この歌も、女歌の系統のものではない声調を持っていて、この張り詰めた調子は知性的な響きを持っている」と述べています。

 

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