大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

富士の高嶺に・・・巻第3-317~318

訓読 >>>

317
天地(あめつち)の 分れし時ゆ 神(かむ)さびて 高く貴(たふと)き 駿河(するが)なる 布士(ふじ)の高嶺を 天の原 振りさけ見れば 渡る日の 影も隠(かく)らひ 照る月の 光も見えず 白雲(しらくも)も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 不尽(ふじ)の高嶺は

318
田子(たご)の浦ゆうち出(い)でて見れば真白(ましろ)にぞ不尽の高嶺に雪は降りける

 

要旨 >>>

〈317〉天と地が初めて分かれた時から、神のように高く貴い駿河の富士の山を、大空に向かい振り仰いで見ると、空を渡る日の光も隠れ、夜空に照る月の光も見えず、白雲も滞って行けず、いつの時も雪が降っている。語り継ぎ、言い伝えていこう、この富士の高嶺を。

〈318〉田子の浦を通って、見晴らしのきく所に出てみると、真っ白に富士の高嶺に雪が降り積もっている。

 

鑑賞 >>>

 山部赤人が富士山を望見して詠んだ長歌反歌です。山部赤人奈良時代の初期から中期にかけて作歌がみとめられる宮廷歌人(生没年未詳)です。『古今和歌集』には「人麻呂は赤人が上に立たむこと難く、赤人は人麻呂が下に立たむこと難くなむありける」と記されており、柿本人麻呂としばしば並び称されます。彼が活躍した時期は、人麻呂より20年ほど後で、聖武天皇即位の前後から736年までの歌(長歌13首、短歌37首)が『万葉集』に残っています。

 長歌の「分れし時ゆ」の「ゆ」は起点。「神さびて」は、神のように。「駿河」は今の静岡県中部地方。「い行きはばかり」の「い」は接頭語。行くことを拒まれて。「時じくぞ」は、季節に関係なくいつも。「布士」は、万葉仮名による表記。天地開闢から歌い起こし、日・月・雲・雪等の語を配して時間的・空間的広がりを描写、なおその中にあって富士山は偉容であると賛美しています。

 反歌の「うち出でて」は、視界が遮られていた所から、急に広々とした所に出ること。「田子の浦ゆ」の「田子の浦」は、現在の興津の東方から由比を経て蒲原にいたる海岸。「ゆ」は「~を通って」の意。「不尽」は、万葉仮名による表記。作者の位置を明らかにし、初めて富士山を眼前にした瞬間の感動を詠んでいます。

 これらの歌について、文芸評論家の山本憲吉は次のように述べています。「人麻呂の長歌に較べると息が短く、枕詞を一つも用いず、言葉が連発式につづき、文脈の進行に速度がある。長歌では、不尽山の讃歌を、そのときの状況から切り離して一般的に述べながら、短歌で一転して、田児の浦を出し、そのときの一回的な経験を歌っている。この長短歌の転換の機微が快い。・・・短歌も簡潔で無駄がなく、上二句の字余りによって、悠々迫らぬすべり出しを見せながら、『ゆ、ば、ぞ、に、ける』と助辞を重ねて、緊密な声調をつくり出している。繊細な赤人の歌風としては、珍しく規模の大きい歌いぶりだが、それもやはり不尽山という素材の大きさから来ているのであって、人麻呂の荘重で律動的な歌いぶりとはやはり違った、静的・造型的な手堅さが感じられる」

 なお、短歌は、『新古今集』では「田子の浦にうち出でて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」として収められており、これによると、「田子の浦に出て眺めてみると、真っ白な富士の高嶺に今まさに雪が降り続いている」といった意味になります。つまり、元の歌が降り積もった雪を一瞬に見てうたったのに対し、改変後は、あたかも長く滞在して見続けたようであり、そもそも雪が降り続いている間は、富士山の頂上雲に隠れて見えるはずがない、たとえ晴れていたとしても遥か彼方に降り続く雪が見えるはずもない、すなわち、あくまで想像の歌ということになります。

 新古今風に、しらべを重んじ、歌の流れを優美にするため変えられたのでしょうが、「白妙」などと飾った言い回しや「降りつつ」などの改ざんによって、本来の力強いひびきや、現場に立った率直な感動が伝わりにくくなっています。古歌とは、見たまま、思ったままを、何の技巧もなく詠むものだと説く賀茂真淵も、「古(いにしへ)は、ただ有(あり)のままにいひつらねたるに、えもいはぬ歌となれる、まこといかで意得(こころえ)ざりけん」といって、改変を強く非難しています。また、後の正岡子規も、「いやしくも客観的に景色を詠む場合には、その地を知らなければ到底よい歌にはならない。それを京都の外に一歩も出ない公卿たちが、歌人は居ながらに名所を知るなどと称して、名所の歌を詠むなどは乱暴極まる」と憤慨しています。

 

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