訓読 >>>
786
春の雨はいやしき降るに梅の花いまだ咲かなくいと若みかも
787
夢のごと思ほゆるかもはしきやし君が使ひの数多(まね)く通へば
788
うら若み花咲きかたき梅を植ゑて人の言(こと)繁(しげ)み思ひぞ我がする
789
心ぐく思ほゆるかも春霞(はるがすみ)たなびく時に言(こと)の通へば
790
春風(はるかぜ)の音(おと)にし出(い)なばありさりて今ならずとも君がまにまに
要旨 >>>
〈786〉春雨はしきりに降っているものの、我が家の梅の花はまだ咲いていません、若すぎるからなのでしょうか。
〈787〉夢のような気がいたします。お慕わしいあなた様のような方のお使いが幾度もいらしゃるので。
〈788〉まだ若くて、花が咲くかどうか分からない梅を植えていますが、人の噂がうるさくて、どうしたものかと困っています。
〈789〉申し訳なさに心が晴れやらぬ気分でいます。春霞のたなびくこの季節に、しきりにお便りをいただくものですから。
〈790〉春風が吹いてくるように、きちんとしたお言葉をお寄せくださったなら、時期を見て、あなた様の気持に添うようにいたしましょう。
鑑賞 >>>
藤原久須麻呂(ふじわらのくずまろ・仲麻呂の子)が、家持の娘を息子の嫁にほしいと言ってきたのに対し、家持は、まだ幼い娘を「梅の花」にたとえ、娘の成長を待ってほしいと婉曲に断ったもののようです。この時の家持は29歳、娘は10歳ぐらいだったとされます。藤原久須麻呂は、天平宝字2年(758年)正六位下から十五位下。美濃守、大和守、左右京尹などを経て同6年に参議兼丹波守となりましたが、同8年、父の仲麻呂の謀反(藤原仲麻呂の乱)に際して殺されました。この当時、仲麻呂は政治的実力を徐々に蓄えつつあった時期でしたが、後年の仲麻呂のやり口を思えば、家持は仲麻呂の実力を認める一方、心中密かに脅威を覚え、かつ反発していたのかもしれません。まだ幼い娘とはいえ、家持が婉曲に縁談を断ったのには、そうした思いがあったとも考えられます。
786の「春の雨」は、花の咲くのを促すものとして言っています。「いやしき」は、いよいよしきりに。男からの求婚をしきりに降る春の雨に、若すぎる娘をいまだ咲かない梅に譬え、理由をつけながらも、男の面目を立てようとしています。「若み」は、若いので。787の「愛しきやし」の「愛しき」は、愛すべき、慕わしい、で、君を讃えたもの。「やし」は、詠嘆。「まねく」は、度々、数多く。788の「うら若み」の「うら」は、接頭語。「人の言繁み」の「人」は、久須麻呂のことを言っています。「繁み」は「繁し」のミ語法で、頻繁なので。789の「心ぐく」は、心が晴れない意。「言の通へば」は、久須麻呂の使いが頻繁に通って来るので。790の「春風の」は「音に出づ」の枕詞。「音」は「言」の意で、「音にし出なば」は、明確な意思表示の言葉を寄せて下さったならば。「ありさりて」は、時機を見て。
家持のこれらの歌に対し、藤原久須麻呂は次の歌を返しています。
〈791〉奥山の岩蔭(いはかげ)に生(お)ふる菅の根のねもころ我(わ)れも相(あひ)思はざれや
・・・奥山の岩蔭に生える菅の根のように、私だって、心から相思わぬことがありましょうか。
〈792〉春雨(はるさめ)を待つとにしあらし我(わ)がやどの若木(わかき)の梅もいまだ含(ふふ)めり
・・・春雨を待っているのでしょうか、我が家の庭の若い梅もまだつぼみのままです。
791の上3句は「ねもころ」を導く序詞。「ねもころ」は、心深く。家持が、久須麻呂に他意なく思っていることを言っているのに対し、久須麻呂も自分も同じく、と言っているものです。792の「いまだ含めり」は、まだ蕾んでいる。自分の息子を「若木の梅」にたとえており、790の家持の申し出に同意しています。
なお、ここで歌われている家持の幼い娘というのは、天平11年(739年)夏に亡くなった「妾」とある女性が生んだ子であろうとみられています。