訓読 >>>
786
春の雨はいやしき降るに梅の花いまだ咲かなくいと若みかも
787
夢のごと思ほゆるかもはしきやし君が使の数多く通へば
788
うら若み花咲きかたき梅を植ゑて人の言(こと)繁(しげ)み思ひぞ我がする
要旨 >>>
〈786〉春雨はしきりに降っているものの、我が家の梅の花はまだ咲いていません、若すぎるからなのでしょうか。
〈787〉あなた様のような方のいとしい使いが幾度もいらしゃるので夢のようです。
〈788〉まだ若くて、花が咲くかどうか分からない梅を植えていますが、人の噂がうるさくて、どうしたものかと困っています。
鑑賞 >>>
藤原久須麻呂(ふじわらのくずまろ・仲麻呂の子)が家持の娘を息子の嫁にほしいと言ってきたのに対して答えた歌です。家持は、まだ幼い自分の娘を「梅の花」にたとえ、娘の成長を待ってほしいと婉曲に断ったもののようです。
なお、これらの歌に対し、藤原久須麻呂は「春雨を待つとにしあらし我がやどの若木の梅もいまだふふめり」という歌を返しています。「春雨を待っているのでしょうか、我が家の庭の若い梅もまだつぼみのままです」といい、自分の息子を「若木の梅」にたとえています。
786の「春の雨」は、花の咲くのを促すものとして言っています。「いやしき」はいよいよしきりに。男からの求婚をしきりに降る春の雨に、若すぎる娘をいまだ咲かない梅に譬え、理由をつけながらも、男の面目を立てようとしています。787の「愛しきやし」の「やし」は詠嘆。788の「うら若み」の「うら」は接頭語。「人の言繁み」の「人」は久須麻呂のことを言っています。
久須麻呂は藤原南家の三男ですから、この縁談は、家持にとって決して悪い話ではなかったはずなのですが・・・。