大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

藤波の影なす海の・・・巻第19-4199~4202

訓読 >>>

4199
藤波(ふぢなみ)の影(かげ)なす海の底(そこ)清み沈(しづ)く石をも玉とぞ我(わ)が見る

4200
多祜の浦の底さへにほふ藤波をかざして行かむ見ぬ人のため

4201
いささかに思ひて来(こ)しを多祜の浦に咲ける藤見て一夜(ひとよ)経(へ)ぬべし

4202
藤波を仮廬(かりほ)に造り浦廻(うらみ)する人とは知らに海人(あま)とか見らむ

 

要旨 >>>

〈4199〉藤の花が影を成して映っている海の底が清らかなので、沈んでいる石まで、真珠であるかのように見える。

〈4200〉多胡の浦の底まで映し出す波打つ藤、この花を髪にかざしていこう。まだ見たことのない人のために。

〈4201〉さほどでもあるまいと思ってやって来たが、多胡の浦に咲く藤に見ほれて、一晩過ごしてしまいそうだ。

〈4202〉藤の花で飾って仮小屋にして浦巡りしているだけなのに、それとも知らずに、人は私たちを土地の漁師と見るだろうか。

 

鑑賞 >>>

 天平勝宝2年(750年)4月12日、大伴家持は、越中国庁の部下の役人たちと布勢(ふせ)の湖(氷見市南部にあった湖)に遊覧し、多祜(たこ)の入江に船を停泊して藤の花を見学しました。家持が越中守として赴任したのは27歳のとき。この年は31歳になっていましたが、都を出て異郷の風物に接した彼は、大いに詩魂をゆさぶられたようで、生涯で最も多くの歌を詠んだのはこの時期にあたります。

 なかでも布勢の湖の景観は家持のお気に入りだったらしく、都から来た客もわざわざ案内しているほどです。湖の一角にある多祜の浦の岸辺には藤の花が多く咲いていたらしく、ここの歌は藤の花を見てそれぞれが作った歌です。4199が家持の歌、4200が次官の内蔵忌寸縄麻呂(くらのいみきなわまろ)の歌、4201が判官の久米朝臣広縄(くめのあそみひろなわ)の歌、4202が判官の久米朝臣広縄(くめのあそみひろなわ)の歌。

 現代の私たちは、多祜の浦の風景をこれらの歌から想像するしかありませんが、久米広縄の歌では「さほど期待はしていなかったのに・・・」と言いつつ、その美しさに大いに感動したようすがうかがえます。