大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

わご大君の高知らす吉野の宮は・・・巻第6-923~925

訓読 >>>

923
やすみしし わご大君(おほきみ)の 高知らす 吉野の宮は 畳(たたな)づく 青垣(あをかき)隠(ごも)り 川波の 清き河内(かふち)ぞ 春へは 花咲きををり 秋されば 霧(きり)立ち渡る その山の いやますますに この川の 絶ゆることなく ももしきの 大宮人(おほみやびと)は 常に通はむ

924
み吉野の象山(きさやま)の際(ま)の木末(こぬれ)にはここだもさわく鳥の声かも

925
ぬばたまの夜の更(ふ)けゆけば久木(ひさき)生(お)ふる清き川原(かはら)に千鳥(ちどり)しば鳴く

 

要旨 >>>

〈923〉安らかに天下をお治めになるわが天皇が、高々とお造りになった吉野の離宮は、幾重にも連なる青い垣のような山々に囲まれた、川の流れの清らかな河内だ。春になると花が咲き誇り、秋が来れば霧が一面に立ちこめる。その山がずっと重なるように、また、この川がいつまでも絶えないように、大宮人はいつまでも行きかうであろう。

〈924〉神聖な吉野の象山のなかの木々の梢(こずえ)には、はなはだしく鳴き騒ぐ鳥の声がする。

〈925〉夜が更けて、久木の生い茂る清らかな川原で、千鳥がしきりに鳴いている。

 

鑑賞 >>>

 聖武天皇が吉野離宮行幸なさった時に、供奉した山部赤人が作った長歌1首と反歌2首。

 923の「やすみしし」は「わご大君」の枕詞。「高知らす」の「高」は讃え詞で「知らす」は御支配になる。「春へ」は春ごろ。「咲きををり」は、枝もたわむほど咲き。「ももしきの」は「大宮人」の枕詞。924の「象山」は、奈良県吉野郡吉野町宮滝の下流南岸に見える山。「木末」は、木の枝先。「ここだ」は、数多く、たくさん。925の「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。「久木」は木の名前で、今の何の木にあたるかは不明ながら、一説にはアカメガシワとされ、成長が早く、他の木に先んじて育つ強い生命力があることから、吉野の宮を讃える歌に詠まれたと考えられています。

 赤人のこの長歌は、笠金村が同じ時に作った歌が時代の新風に乗っているのに対し、構想のみならず語句表現に至るまで、柿本人麻呂が吉野の宮に従駕したときの作(巻第1-36)に強く影響されており、宮廷賛歌の伝統的な形式を厳格に守って作られたことを物語っています。一方では、これを人麻呂の単なる模倣だとして批判する向きがあります。

 しかしながら、この時の聖武天皇の吉野行幸は、かつて壬申の乱で終始行動をともにした天武持統の皇統の、正統な後継者であることの宣言であったわけです。人麻呂の吉野賛歌は、天武と持統を一体化して神格化するべく詠まれたものであり、赤人は、ここに聖武天皇をも一体化して人々に意識させるものとして、あえて人麻呂の歌を踏襲した賛歌を詠んだと考えられます。むしろ赤人の識見というべきです。

 そして、924・925は、打って変わって、純粋に、素晴らしい叙景と抒情の境地に溢れています。長歌は公的な動機から作られたものですが、この2首の反歌は公的な要素を全く感じさせず分離したものになっています。この歌に関して、作家の田辺聖子は次のように述べています。「赤人は宮廷歌人らしく、宮を賛美し、天皇の御代を寿ぐところは人麻呂を踏襲しているが、自然の美をうたう声は、はや、赤人の地声である。赤人は、人麻呂のようにおのが情感を色絵具で、ぽってりと自然を塗り込めたりせず、自然の色彩をそのままにとどめる。それをうたう地声は澄んで透明である」。