大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

心には忘るる日なく思へども・・・巻第4-646~649

訓読 >>>

646
ますらをの思ひわびつつ度(たび)まねく嘆く嘆きを負(お)はぬものかも
647
心には忘るる日なく思へども人の言(こと)こそ繁(しげ)き君にあれ
648
相(あひ)見ずて日(け)長くなりぬこの頃はいかに幸(さき)くやいふかし我妹(わぎも)
649
夏葛(なつくず)の絶えぬ使(つかひ)のよどめれば事(こと)しもあるごと思ひつるかも

 

要旨 >>>

〈646〉男子たる者が思い焦がれて何度も何度もつくため息なのに、それがあなたのせいだと思わないのですか。

〈647〉心には忘れる日などなく思い続けているのに、人の噂が絶えないあなたとはなかなか逢えないのですね。

〈648〉随分長くお逢いできませんでしたが、いかがでしたか。気がかりでしたよ、愛しい人。

〈649〉いつも来ていた使いが来なくなったので、何かが起こったのかと心配していました。

 

鑑賞 >>>

 646・648が大伴駿河麻呂(おおとものするがまろ)の歌、647・649が大伴坂上郎女(おほとものさかのうえのいらつめ)の歌です。坂上郎女と駿河麻呂とは叔母と甥の関係で、また後に駿河麻呂は郎女の次女、二嬢と結婚しています。その甥と、あたかも恋人同士のような歌のやり取りをしているため、郎女はかつて淫乱女であるかのような扱いを受けた時期があります。同じく甥の家持とも似たようなやり取りがあるため、ある学者などは「厚化粧の姥桜(うばざくら)のお世辞が過ぎて暑苦しい」と酷評したとか。

 実は、ここの歌は、左注に「起居を相聞」したとあり、お互いの近況を尋ね合ったものです。相手を深く思いやる気持ちを歌で表現しようとすれば、あたかも恋人に対するようになってしまうものであり、『万葉集』の「起居相聞」の歌には、恋歌と区別しにくい表現のものが数多くあります。当時の習慣や歌が作られた状況をきちんと把握しないと、大きな誤解を招きかねません。

 646の「度まねく」は、頻繁に、たびたび。648の「幸く」は、無事に、変わりなく。「いふかし」は、いぶかしい、気がかりだ。649の「夏葛の」は夏の葛のどこまでも延びる意から、「絶えぬ」の枕詞。