大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

千万の軍なりとも・・・巻第6-971~972

訓読 >>>

971
白雲の 龍田(たつた)の山の 露霜(つゆしも)に 色づく時に 打ち越えて 旅行く君は 五百重山(いほへやま) い行きさくみ 賊(あた)守る 筑紫(つくし)に至り 山の極(そき) 野の極(そき)見よと 伴(とも)の部(べ)を 班(あか)ち遣(つか)はし 山彦(やまびこ)の 答へむ極(きは)み 蟾蜍(たにぐく)の さ渡る極(きは)み 国形(くにかた)を 見めしたまひて 冬こもり 春さりゆかば 飛ぶ鳥の 早く来まさね 龍田道(たつたぢ)の 岡辺(をかへ)の道に 紅躑躅(につつじ)の にほはむ時の 桜花(さくらばな) 咲きなむ時に 山たづの 迎へ参(ま)ゐ出(で)む 君が来まさば

972
千万(ちよろづ)の軍(いくさ)なりとも言挙(ことあ)げせず取りて来(き)ぬべき士(をのこ)とぞ思ふ

 

要旨 >>>

〈971〉白雲の立つという龍田の山が、つめたい露によって色づく頃に、その山を越えて遠い旅にお出かけになるあなたは、幾重にも重なる山々を踏み分けて進み、国防のかなめとなる筑紫に至り、山の果て、野の果てまで視察せよと、配下の者達をあちこちに遣わし、山彦のこだまする限り、蟾蜍(ひきがえる)の這い回る限り、国のありさまを御覧になって、冬木が芽吹く春になったら、空飛ぶ鳥のように早く帰って来てください。龍田道の岡辺の道に、紅のつつじが咲き映える時、桜の花が咲き匂う時に、お迎えに参りましょう。あなたが帰って来られるならば。

〈972〉あなたは、たとえ相手が千万の兵であろうとも、とやかく言わずに討ち取ってこられるに違いない、そんな勇猛な男子であると思っています。

 

鑑賞 >>>

 天平4年(732年)8月に、藤原宇合(ふじわらのうまかい)が西海道節度使に任命された時に高橋虫麻呂が作った歌です。西海道節度使は、当時対立を深めていた新羅への備えとして派遣された特使で、軍団を統括するために設けられた臨時の官職(令外官)です。西海道は現在の九州地方のことで、筑前筑後豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩・壱岐対馬を指します。藤原宇合は、不比等の三男、藤原四兄弟の一人で、遣唐副使や常陸国守、また蝦夷の反乱を抑えるための持節大将軍などを歴任、虫麻呂は宇合が常陸国守だった時からの部下でした。

 971の「白雲の」は「龍田」の枕詞。「龍田の山」は、奈良県生駒郡三郷町龍田大社の背後にある山。大和国河内国を結ぶ龍田越えの道があり、生駒越えと共によく利用されていました。「五百重山」は、多くの山の意。「い行きさくみ」は、踏み分けて進み。「極」は、果て。「伴の部」は、配下の軍兵。「班ち」は、「分かち」の古語。「蟾蜍」は、ヒキガエル。「国形」は、国の状況、ありさま。「冬こもり」は「春」の枕詞。「飛ぶ鳥の」は「早く」の枕詞。「龍田道」は、大和から難波へ、龍田山近くを越えていく道。「山たづの」は「迎へ」の枕詞。

 972の「言挙げ」は、自身の願望などを言葉に出して言い立てること。宇合の任務は節度使であるのに、ただちに外敵に抗する大将軍のごとき言い方をし、長歌の精神をさらに展開しています。この短歌について斎藤茂吉は、「調べを強く緊(し)めて、武将を送るにふさわしい声調を出している」、そして、「この万葉調がもはや吾等には出来ない」とも言っています。

 なお、『懐風藻』には、虫麻呂のこの歌に併せ、宇合自身が作った次の漢詩が記されています。

往歳東山役 今年西海行 行人一生裏 幾度倦辺兵(往く歳は東山の役 今年は西海の行 行人一生の裏 幾度か辺兵に倦まん)
・・・前に東山道の役に任じられ、今は西海道節度使として赴く。私は一生のうち、幾度辺土の士となればすむのか。

 いかにも泣き言を言っているようですが、実際、宇合は、遣唐使の一員として唐に渡ったほか、国内のあちこちを飛び回り、さまざまな仕事に携わっています。生涯を通して、大和にいた期間は短かったとみられ、藤原四兄弟の中で最もよく働いた人です。虫麻呂は、宇合のこの漢詩を踏まえて、愚痴など言わずに志を高く持ち、しっかり任務を果たしてきて下さい、と勇気づけたともみられますが、むしろ当人の本音をもらした漢詩を併せ記すことで、虫麻呂の勇ましい歌が、いかに「建前の歌」であるかを、あえて浮かび上がらせているようにも感じられます。