訓読 >>>
雪の上(うへ)に照れる月夜(つくよ)に梅の花(はな)折りて送らむはしき子もがも
要旨 >>>
雪の上に輝く月の美しいこんな夜に、梅の花を折って贈ってやれる、いとしい娘でもいたらなあ。
鑑賞 >>>
大伴家持が、宴席で、雪、月、梅の花を詠んだ歌です。「照れる月夜に」は、照っている月の美しい夜に。「もがも」は、願望。1首の中に雪・月・花を配合した画期的な例であり、まさに日本人の美意識の一原点をなす作品といえます。高岡市万葉歴史館総括研究員の新谷秀夫氏は、この歌はとくに秀歌として取り上げられることはないとしつつも、次のように指摘しています。
―― 和歌において3つの素材を同時に詠むのは早くても平安時代中期以降であることから、この歌は、和歌史の流れのなかで逸脱している。さらに、四季の代表的風物をあらわす「雪月花」の語の典拠とされる唐代の白居易の漢詩『寄殷協律』は、家持のこの歌よりずっと後に作られた詩であり、先駆者家持は、まるで文学史という庭で狂い咲きのように花開いているといって過言ではない。月と雪の取り合わせも『万葉集』ではこの歌だけだ。――
ご参考までに、「雪月花」の語の典拠となった白居易の『寄殷協律(殷協律に寄す)』をご紹介しておきます。とてもいい詩です。
五歳優游同過日
一朝消散似浮雲
琴詩酒友皆抛我
雪月花時最憶君
幾度聴鶏歌白日
亦曾騎馬詠紅裙
呉娘暮雨蕭蕭曲
自別江南更不聞
五歳(ごさい)優游(ゆうゆう)して同(とも)に日を過(すご)す
一朝(いっちょう)消散(しょうさん)して浮雲(ふうん)に似(に)たり
琴詩酒(きんししゅ)の友(とも)皆(み)な我(わ)れを抛(なげう)ち
雪月花(せつげつか)の時(とき)最(もっと)も君を憶(おも)う
幾度(いくたび)か鶏(にわとり)を聴いて白日(はくじつ)を歌い
亦(ま)た曾(かつ)て馬に騎(の)りて紅裙(こうくん)を詠(えい)じし
呉娘(ごじょう) 暮雨(ぼう) 蕭蕭(しょうしょう)の曲(きょく)
江南(こうなん)に別れし自(よ)り更(さら)に聞かず
【訳】五年間も一緒にのんびりと穏やかな日を過ごしたのに、ある日、それはまるで浮雲のように消え散ってしまった。共に琴を奏で、詩を吟じ、酒を飲んだ友は、皆私を離れてしまったが、雪や月や花が美しい時は、いちばんに君のことを思う。
幾度「黄鶏」の歌を聴き、「白日」の曲を歌ったことだろうか。馬に乗って、赤い裾の衣を着た美人を詩に詠じたこともあった。呉二娘の「暮雨蕭蕭」の曲は、君と江南で別れてから、一度も聞いていない。
大伴家持の生涯
大伴家持は、大伴旅人の晩年54歳の時の子で、母は妾であった丹比(たぢひ)氏の女性。生年は養老2年(718年)とする説が有力です。神亀5年(728年)に父旅人が大宰帥(大宰府の長官)として西下。11歳の家持もこれに従い、程なく養母の大伴女郎を失います。帰京後の天平3年(731年)父旅人も死去。天平5年、16歳になった家持は、年月の明らかな歌では初めて『万葉集』に歌(巻第6-994)を残します。同6年、17歳の時に、蔭位制により内舎人(うどねり)として出仕。同13年、24歳で正六位上。出仕以後の数年間に妾を亡くし(2人の遺児あり)、坂上大嬢と結婚。この頃、聖武天皇によって都が平城京から恭仁・難波・紫香楽(しがらき)の各京を転々としたため、官吏である家持の居所も佐保に一定しませんでした。同18年、29歳の時に、宮内少輔を経て越中守となり赴任、天平勝宝3年(751年)、34歳で帰京、少納言に。翌年にかけて東大寺大仏開眼会があり、同5年、36歳の時に絶唱春愁三絶(巻第19-4290~4292)を残します。同6年、兵部少輔、更に山陰巡察使を兼ね、7年2~3月に防人を検閲。この間、6年8月から7年2月まで作歌を欠きます。天平宝字元年(757年)6月、兵部大輔。7月に橘奈良麻呂の変が勃発、12月頃に右中弁。同2年、41歳で因幡守となり、同3年(759年)正月の賀歌(巻第20-4516)を『万葉集』の最終歌として、以後の作歌は伝わっていません。その後、薩摩守、太宰少弐、中務大輔、相模守、左京大夫、伊勢守等を歴任し、宝亀11年(780年)に参議。天応元年(781年)春宮大夫を兼ね、従三位。延暦2年(783年)に中納言となり、同4年8月に68歳で死去。ただし、死後まもなくに起こった藤原種継射殺事件に連座して元の官位を奪われ、大同元年(806年)まで従三位への復位はなされませんでした。