大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

橘のとをの橘八つ代にも・・・巻第18-4058~4059

訓読 >>>

4058
橘(たちばな)のとをの橘(たちばな) 八(や)つ代(よ)にも我(あ)れは忘れじこの橘を

4059
橘(たちばな)の下照(したで)る庭に殿(との)建てて酒(さか)みづきいます我(わ)が大君(おほきみ)かも

 

要旨 >>>

〈4058〉橘のなかでも枝もたわわんばかりに実ったこの橘を、私はいつの代までも忘れはしない、この橘を。

〈4059〉橘の実が木陰を照らしている庭に御殿を建て、わが大君は酒の宴に興じておいでになることだ。

 

鑑賞 >>>

 4058は、元正天皇(げんしょうてんのう)が左大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)の邸宅で宴を催した時、御座所近くに植えられていた橘を捉えての御製。「とを」は、枝がたわむほど豊かに実がなること。「とをの橘」は諸兄の一家の繁栄をたとえた言葉。「八つ代」は八千代、多くの年代の意。「橘」という氏は、元々その木になぞらえて賜わったものであり、非常に緊密した譬えとなっています。また「橘」の語が3度も繰り返されていることから、天皇による諸兄への絶大なる賛美と信頼が窺えます。

 4059は、供奉していた河内女王(こうちのおおきみ:高市皇子の娘)が詠んだ歌。「橘の下照る庭に」は、間接ながら諸兄に対する賀でもあり、「殿」は、新たに建てられた天皇の御座所のことで、行幸を仰ぐ際には清浄を期すため新築するのが習いになっていました。

 元正天皇は、父・草壁皇子天武天皇の子)と母・元明天皇の長女にあたります。名は氷高皇女といい、和銅7年(714年)年9月に母の譲位を受けて36歳で即位しました。このとき、皇太子として首(おびと)皇子(のちの聖武天皇)がありましたが、まだ14歳で身体も虚弱だったらしく、一方、氷高皇女は落ち着いた考え深い人柄であり、社稷保持のため、また皇嗣候補として有力な他の諸皇子を抑えるためもあって即位に至ったとされます。その治世前半は、母上皇藤原不比等が政権を担い、二人の死後は長屋王が担当しました。

 

元正天皇