大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

幸くあらばまたかへり見む・・・巻第13-3240~3241

訓読 >>>

3240
大君(おほきみ)の 命(みこと)畏(かしこ)み 見れど飽かぬ 奈良山越えて 真木(まき)積む 泉(いずみ)の川の 早き瀬を 棹(さを)さし渡り ちはやぶる 宇治(うぢ)の渡りの 激(たき)つ瀬を 見つつ渡りて 近江道(あふみぢ)の 逢坂山(あふさかやま)に 手向(たむ)けして 我(わ)が越え行けば 楽浪(ささなみ)の 志賀(しが)の唐崎(からさき) 幸(さき)くあらば またかへり見む 道の隈(くま) 八十隈(やそくま)ごとに 嘆きつつ 我(わ)が過ぎ行けば いや遠(とほ)に 里(さと)離(さか)り来(き)ぬ いや高(たか)に 山も越え来ぬ 剣大刀(つるぎたち) 鞘(さや)ゆ抜き出(い)でて 伊香胡山(いかごやま) いかにか我(あ)がせむ 行くへ知らずて

3241
天地(あめつち)を憂(うれ)へ祈(こ)ひ祷(の)み幸(さき)くあらばまたかへり見む志賀の唐崎

 

要旨 >>>

〈3240〉大君の仰せを恐れ謹んで、いくら見ても見飽きることのない奈良山を越え、真木を運ぶの泉の川早瀬を棹さして渡り、宇治川の逆巻く瀬を見ながら渡る。近江道の逢坂山にお供えして越えていくと、志賀の唐崎に至る。無事であればまた帰りに見ようと、道を行く。数多くの曲がり角ごとに嘆きながら通りすぎてゆくと、いよいよ遠く故郷から離れてしまった。高い山も越え、剣太刀を鞘から抜いていかがせんという伊香胡山ではないが、私はいかがしたらよいのか、行方も分からずに。

〈3241〉天地の神に願って祈り、無事にここまで帰ってくることができれば、もう一度見たい、志賀の唐崎を。

 

鑑賞 >>>

 「或る本に穂積朝臣(ほずみのあそみおゆ)が佐渡に配流されたときに作った歌である」旨の注釈があります。穂積朝臣老は、養老6年(722年)1月に元正天皇を名指しで非難した罪で斬刑の判決を受けたものの、首皇子の奏上により死一等を降され、佐渡に配流された人で、後に恩赦によって位が旧に復されています。巻第3-288に、その折に詠んだとされる歌が載っています。
 
〈288〉わが命し真幸(まさき)くあらばまたも見む志賀の大津に寄する白波
 ・・・私の命が無事であれば、再び見に来よう、志賀の大津にうち寄せるこの白波を
 
 3240の「大君の命畏み」は、官命を恐れ謹む慣用句。「奈良山」は、奈良市北部の丘陵。「真木」は、杉・檜などの良質の木材となる木。「泉の川」は木津川。「逢坂山」は、大津市京都府との境にある山。「楽浪」は、琵琶湖西岸の地。「志賀の唐崎」は、大津市の唐崎神社付近。「八十隈」は、多くの曲がり角。「剣大刀鞘ゆ抜き出でて」は「伊香胡山」を導く序詞。男を刀身に、女を鞘に譬えた『游仙窟』の「君今シ抜キ出デム後ハ、空シキ鞘ヲイカニカセム」に拠っています。「伊香胡山」は、長浜市木之本町伊香具神社付近の山。

 3241の「憂ふ」は、嘆願する。この歌は、60年昔の有馬皇子の「磐代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた還り見む」(巻第2-141)によく似ています。穂積老もまた「幸くあらばまたかへり見む」と歌っており、これこそ罪を得て流されていく人の気持ちだったのでしょう。有馬皇子はそれを叶えることはできませんでしたが、穂積老は願った甲斐があって滋賀の唐崎を再び見て中央に戻ることができました。