訓読 >>>
3727
塵泥(ちりひぢ)の数にもあらぬ我(わ)れゆゑに思ひわぶらむ妹(いも)がかなしさ
3728
あをによし奈良の大路(おほち)は行き良(よ)けどこの山道(やまみち)は行き悪(あ)しかりけり
3729
愛(うるは)しと我(あ)が思(も)ふ妹(いも)を思ひつつ行けばかもとな行き悪(あ)しかるらむ
3730
恐(かしこ)みと告(の)らずありしをみ越路(こしぢ)の手向(たむ)けに立ちて妹(いも)が名 告(の)りつ
要旨 >>>
〈3727〉塵や泥のようにものの数にも入らない私のために、わびしい思いをして悩んでいる、そんな彼女がいとおしくてならない。
〈3728〉あの立派な奈良の都大路は通り易いけれども、遠い国へのこの山道は、何と通り難いことか。
〈3729〉素敵な人だとが思っている彼女を恋い慕いつつ行くから、この山道はこうもやたらと行き難いのだろうか。
〈3730〉恐れ多いからと口に出さずにきたが、越の国へ越えていく峠のこの手向けの山に立ち、とうとう彼女の名を口に出してしまった。
鑑賞 >>>
ここの4首は、越前国へ配流となった中臣宅守が、旅路についたときに弟上娘子への返歌として作った歌。弟上娘子から贈られた歌(3723~3726)は「心に持ちて」「天の火」などの非凡な詞遣いにとどまらず、歌の心が躍動しており、とても情の豊かな女性でした。それに驚き喜んだ宅守は彼女の歌才に及ばないものの、遠く離れて初めて歌というものの有効性を知り、懸命になって歌を作り上げます。
3727の「塵泥も」は、塵や泥のごとくの意で、価値がないことの譬え。3728の「あをによし」は「奈良」の枕詞。3729の「行けばかもとな」の「か」は疑問、「もとな」は、わけもなく、やたらに。3730の「み越路」の「み」は、美称。「越路」は、近江国から越前国へ越える道。「手向け」は峠の意で、峠には神が宿っているとされ、旅の安全を祈って道祖神に手向け(お供え)をしていました。また、謹慎の身であったため、それまで女の名を口にするのを憚っていたのでした。歩き慣れない険しい山道を行く、傷心の宅守の姿が目に浮かぶようです。
窪田空穂はこれらの歌について、3727は「純情ではあるが、気魄に乏しく、その上では娘子に圧せられる趣がある、3728は「単純に、他意なく詠んでいるところに、その人柄を思わせるものがある」、3729は「やや手腕ある作者なら、二首(3728と3729)を一首にしたであろう。宅守の正直な、よい歌をなどとは思わなかった人柄を思わせる」と述べ、3730に対しては、「宅守の歌は、その感性も鋭くはなく、詠み方も大体説明的で、線の細いものであるが、この歌は、感情の昂揚した自然の成行きとして、一首叙事的で、調べも張っており、宅守としては特異な趣を持ったものとなっている」と評しています。